「ボクのアジア紀行一涙のピース!(イナピー語録より)」
台湾でのコンサート後の打ち上げ、つまりこのアジア・ツアーの打ち上げでのあいさつ、こう切り出した。「このコンサートでは絶対涙を見せないというのがいちばんの課題でした」みんな、笑った。笑ったって構わない、本気でそう考えていたのだから。それは、そんな涙には無縁の人たちには理解できないだろうけど、自分にとっては逃げようとするほど引き込まれてしまう場所なのだ。年を取るほどに。
でも意を決して臨んだ台湾でのコンサート、あんなふうに、北京語の「君住む街へ」の大合唱を目の前にして太刀打ちできるヤツがいたとしたら、そんなヤツは決して信用してはいけない。だって、あれは反則だ。オレの「涙を見せない」という決意を知って、誰かが、何が何でも泣かしてやろうと企んだに違いない。1982年、武道館の「YES-YES-YES」以来の出来事だった。あんなステキな結末が待っているなんて、誰が予想しただろう。いつの時も、絶対にそんなことは期待しちゃいけない。このツアーも、ただ、やれるだけの準備、そして当日の演奏をせいいっぱいやろうとしていただけだった。
その日が近づいてもなかなか臨場感が沸いてこなかった。SARSのこともあり、いつ中止と言われるかも知れなかったから。そして香港へ出発の10月14日。ブッシュの17日来日を前に成田は混雑するという情報で、メンバー、スタッフ、早めに向かったけれど、渋滞も余計なチェックもなく、成田で時間を持てあますことになった。で、みなどことなく落ち着かない。人が落ち着かないと自分は落ち着くもの。ライブ前と一緒だ。ラウンジで時間を潰していたら、同級生の、というよりは、この日のフライトの機長の高島が様子を見にきた。
30年以上も昔、オフコースが無名だった頃。売れる保証などまったくなかった、もっと正確に言ってしまえば、誰も売れるなどと思っていなかった頃、二人の友だちが僕らのマネージャーになりたいと名乗り出た。当時ほとんど仕事もなく、一人分の給料も捻出しかねるような無名バンドに、二人のマネージャーは必要ないのは明らかで、二人はその席を互いに譲り合った。相手を思い遣ってってのことか、やはり将来のことを考えたかは聞いてないので、未だに真実は分からない。譲り合っているうちにこの話は立ち消えになり、二人は遠ざかって行った。数年して、二人のうちの一人がバイロットになった。彼に「もしオレたちが売れて、ワールドツアーやることになったらその時、チャーター便はお前が換能しないか」と言ってやった。こんなおとぎ話に乗って来るのがこいつだ。「おう、絶対やれよ、オレが連れてくから!」そんな時は来ないだろう、誰もがそう思っていた。彼が高島。中学、高校と同級だった。出発のひと月ほど前、たまたま会ったので言ってみた。「おい、今度アジアツアーあるんだけど、お前都合つかねえか」「…ちょっと待て、いつだ」「10月14日だったかな、多分…」「よし、調整してみる。10月14日だな、間違いねえな!お前いい加減だからよ」とすぐに乗ってくるのがこいつだ。予約していたJAL便を急遽大変更、僕らを乗せた全日空909便は飛び立った、高島機長の操縦で。ワールドツアーというわけにもチャーター便というわけにもいかなかったけれど、あの頃のことが胸に熱くよみがえった「ほんとになったなぁ…」雲に覆われた日本を窓の下に見ながら、僕らは香港へ向かった。
コンサート会場は前回と同じ、クイーン・エリザベス・スタジアム。楽屋にジャッキー・チェンから花が出ていた。以前、頼まれて曲を書いたからかな、なかなか律儀なヤツじゃんなどと思っていたら吉田が「前の時も出てましたよ、香港の千春さんみたいな感じで、誰にでも出しとくんじゃないですか」 「……」コンサートは八時十五分に始まった。決して上がってはいない。でも、緊張はしていた。それは全然違うもの。頭の中をいちばん大きく占めているのは英語のMC。なんとしても、観客とのコミュニケーションを取りたい。自分は一人になってから、変わり続けたと思う。いや、自分を素直に出せるようになって行っただけなんだ、隠してたわけじゃないけど。外国だからいろいろ不都合もあるけれど、それを乗り越えて今の自分を伝えたかった。ボクの大好きな「思い出作り」にはなっても、今回はそれができなかったらこのツアーはやる必要がないかも知れないとさえ考えていた。だから出来るだけ理解してもらえるよう、助けになるあらゆる映像も準備して行ったし、 もちろんご当地も撮った。ほんとうのところ、客観的にはどう見えていたのかは分からない。でも、序盤からけんめいに攻め続けて、なんとか観客との距離を縮めているという確信はあった。そして終盤、「君住む街へ」の英語部分を歌い終えて、 残る難関は最後の「あの日の勇気を~」からのクソ難しい北京語だけだった。それはいつも突然やってくる。ラブストーリーみたいだ。「請別忘記(チン・ビェ・ワン・ ジィ)…」と歌い始めたら、その言葉の響きが、客より前に自分の心に突き刺さるように届いてしまった。「あぁ、やっぱり来てよかった、みんな聴いてくれてる」「なんか、 気持ちが伝わってるみたいだな」 「今日会ったばかりなのに、なんだか昔から知ってるみたいな人たち」のようなことがごちゃまぜになって。香港の人たちにはどう映ったんだろう。涙は、後で必ず悔やむ。踏ん張れなかった自分を。 ほんとうに悔やむ。みんながどう言ってくれようとも。
その夜、頑張って、頑張って、体にも心にも何も残っていないような、今まで経験したことのない感覚に襲われていることに気づいた。「まだシンガポール、台湾とやらなきゃいけないのにどうしたらいいんだろう」燃焼し尽くしてしまった。 途方に暮れた「いったい、どうしちゃったんだろう…でも明日はシンガポールに行くんだ」日が変わっても、まだ不思議な気持ちが錯綜していた。シンガポールに降り立った時、恐らくぼんやりした顔をしていたに違いない。空港ロビー、地元のスタッフが迎えてくれているのが見えた。「あ、頑張らなきゃ…」という気持ちがにわかに戻ってきた。「よし、頑張ろ…」
シンガポールのコンサートは香港よりさらに遅れて八時半に始まった。テンションは香港に劣らず高かったので、始まる前から、香港で一度やって来たから、という 「経験」はほとんど役に立たないのは分かっていた。案の定、また一曲目から飛ばしていた。抑えようがない。上がっているはずはない。それとも、あれを上がっているというのだろうか。日本でのコンサートは余裕綽々でやっているということか、そんなことは誓ってない。いつも必死だ。その瞬間ふと浮かんだ「勝手に日本を背負ってるのかな。日本のアーティストとして立派に己の責務を果たしたいって」 昔、オフコースを批判してたような誰かが聞いたら、「何を大げさなことを」ってハナで笑うんだろうなぁ、みたいなことが。
シンガポールについての前情報はほとんど当てにならなかった。イベンターが頑張ってくれたのだろう、聞いていたよりずっとたくさんの人たちが集まってくれたし、あまり反応しないはずだったのにいっぱい笑ってくれたし、最後にはみんなが立ち上がっていた。そしてアンコールを待たずにどんどん帰るはずだった観客は駆け寄って来て、大きな拍手をずっと続けてくれた。その拍手の中で思い返していた。観客とのコミュニケーションを主体と考えてきたここ数回のツアーのなかでも 「kira kira」がたどり着けた場所の高さは自分の期待以上だったから、いくら頑張ることは出来ても、自分の命である、言葉にはほとんど頼れそうもないアジアツアーで、さらにそこを乗り越えていこうとすることは、考えることすら無謀だったことを。
打ち上げ終わったのが2時、ホテル出発が5時という強行軍。寝るのはほとんど諦めていたにしても、赤道直下のシンガポールらしく、夜半からの落雷と叩きつけるような雨の音でほとんど眠れず「どうしてこんなに早い便で行くんだろ?」 の思いのまま、まだ薄暗い早朝、チャンギ空港に向かった。機内で少しでも寝ようと思っていたけれど、あれこれ考えているうちにいつそんなに時間が経ったのか「間もなく台北中正国際空港」というアナウンス。初めての台湾。香港で経験したような虚脱感は、もうなかった。そして空港から市内に向かうバスの中、 密かに「『あのkira kiraツアー』を乗り越えよう、それができなかったらきっとこのツアーも日本でのツアーも意味を失う、『kira kira』は初めからアジアを終着の場所と決められていたのでは」と思い始めていた。そう、無謀にも。
コンサートが始まった。勢いよく飛ばした。失うものはなかった。ただ、ただ、みんなに分かってして欲しかった。分かり合いたかった。何をしても素直にできた。歌っても、英語で喋っても、ほんの短い北京語を伝える時も。どこか間違ってるかも知れない、勘違いしてるかも知れない。でも、この年で勘違いできたら幸せというもんだ。台湾にはそう思わせてくれる人たちが待っていた。コンサートはどんどん進んで行き、あっという間に「君住む街へ」にたどり着いた。北京語で歌い始めたらどよめくような歓声が上がった。言い聞かせていたのにやっぱり、ちょっと詰まった。 「クソッ、何やってんだ!」それが心残りだったから、アンコールの最後で、もう一度 「君住む街へ」をやりたいとみんなに伝えた。観客の中へ飛び込んで後ろの方まで駆け上がった。みんなの顔が近くに、近くに。不思議と息は切れない。そして再び 「君住む街へ」が始まった。神戸の震災の時に御影公会堂前で歌った時のことが一瞬よぎった。「さあ、きっちり北京語だぜ!」と歌い始めた。その時、まるでコロシアムのようにそそり立った客席から、かすかに、まるで半透明の幕の向こう側から聞こえてくるように、みんなの歌声が届いてきた。
それがどんどん大きくなってくる。ぴっくりした。胸がいっぱいになった。「請別忘記…」。落とし前どころかもう涙が止まらない。どうにもできなくて泣き顔でピースをした。それしかなかった。人がいて、気持ちがあって、涙があるのだ。 一人で生きていたら、涙も笑顔もない。「ありがとう、ほんとうに来てよかった、君たちに会えてよかった」乗りこえた…。敢えてそう言わせてくれ、誰も文句は言えないだろう。オレの勝手だ。打ち上げへ向かう車の中「…ここ、台北なんだぁ」 と思った。「kira kira」は終わって行った。
これでボクのアジア紀行はおしまい。きっと来たかった人たち、たくさんいたんだと思う。だから、ほんとは自ら「涙」は語りたくなかったけど、少しでも気持ちが伝えられたら、と書きました。そしてあっという間にもう来年。出来るだけみんなのところへ行ければいいんだけどね。でも、その前にいよいよ「クリスマスの約束3」。たいへんだ。みんなが喜んでくれるよう、もうちょっと走るからね。それじゃ、また。ごきげんよう!
2003/11/07 小田和正
Kazumasa Oda Tour 2005"大好きな君に"