2024年6月9日 日比谷音楽祭(日比谷公園大音楽堂)出演
日比谷音楽祭 2024
音楽の新しい循環をみんなでつくる、フリーでボーダーレスな音楽祭。日比谷音楽祭は、日本の野外コンサートの歴史をつくってきた音楽の聖地「野音」を擁する日比谷公園で、素晴らしい音楽を体験できる、誰もに開かれた音楽イベントです。
入場や参加にお金はかかりません。
親子孫3世代、誰もが気持ちのよい空間と、トップアーティストのライブやさまざまな質の高い音楽体験を、無料で楽しめます。無料での開催は、クラウドファンディングや企業の協賛、助成金によって実現しています。「資金のサポートを受けるより有料で開催しては」という考え方もあるかもしれませんが、日比谷音楽祭は無料で開催することを大切にしています。
それは、「世代やジャンルや好みを超えてさまざまな音楽に出会える、誰に対しても開かれた場を作りたい。
一人でも多くの人が音楽が持つ広がりと深さ、そして音楽の楽しみを知るきっかけになりたい」という思いがあるからです。私たちのなかにある「こうあるべき」「これまでこうだった」「これが自分」といった枠は超えていける、音楽の楽しみ方も音楽の届け方も、もっと自由になっていいと日比谷音楽祭は考えています。
その一歩として、無料で音楽体験をお届けします。日比谷音楽祭を楽しんでいただけたら、次はどのような形でも音楽にお金を使ってみてください。音楽を楽しんだ一人一人が音楽を支えることで、音楽文化がより豊かになる。
音楽が人々の暮らしに自然に根をはり、日々を豊かにする。
そういう新しい音楽の循環のある新しいステージに、みんなで進むことを日比谷音楽祭は目指しています。
実行委員長 亀田誠治
★コメントタイプ:Q&A形式
★アーティスト:artist-0116
いつも小田さんが目標だった
去る6月8日、9日、東京・日比谷公園を中心とした日比谷地区で「日比谷音楽祭2024」が開催され、小田さんは9日、日比谷野外大音楽堂で行われた「Hibiya Dream Session 3」のトリを務め、「言葉にできない」、「たしかなこと」、「ラブ・ストーリーは突然に」を披露しました。そこで今回は、長年の小田ファンを自認する実行委員長の亀田誠治さんにインタビュー。思春期の頃に聴いたオフコースの思い出や、小田さんへの思い、さらには「日比谷音楽祭2024」のエピソードまで、たっぷりと語っていただきました。
──今年、還暦を迎えた亀田さん。世代的にも、やはり最初に小田さんを知ったのはオフコース時代でしょうか?
亀田誠治:
はい。僕が中学校2年のとき、1年上に、桐生先輩という偏差値が70ぐらいあった頭の良い男子の先輩がいらして。先輩は生徒会をやっていて、僕も立候補したんですが、そのとき、「お前、頑張れよ」と言って、なぜかオフコースのヒット曲をダビングしたカセットを僕にプレゼントしてくれまして。
──それは興味深い。どうしてオフコースだったんでしょうね。
亀田:
先輩の真意は今も定かではないんですが(笑)。ともかくそのカセットに入っていた「ワインの匂い」や「めぐる季節」とかを聴いて、オフコースが大好きになりました。
──当時の亀田少年は、たしか洋楽しか聴いていなかったんですよね?
亀田:
当時の僕は太宰治が大好きで、恥ずかしながら、「生きているのがかったるい」と、カレンダーの日付に丸を書いて、「今日も一日が終わった。人生の終わりに近づいている」なんてことをやっていた(笑)。真面目なくせして、どこか人生を穿って見ているというか、厭世的な思いを抱えた少年でした。それと、1975年頃、小学5年生くらいのときに流行った「BCL(Broadcast Listening)」という短波を使った海外放送受信をきっかけに、ナショナルの「クーガ」というラジオを買って、3910kHzの短波でFENを受信しまして。
──「FEN」とは「Far East Network」、つまり在日米軍放送局(米軍極東放送網)、現在のAFN(「American Forces Network」)ですね。
亀田:
そう。それ以前からビートルズを聴いてすでに洋楽好きだった僕は、このFENの『American Top 40』という番組に夢中になって、それが高じて、「FM亀田」という空想放送局を自宅の部屋に作ります。選曲もDJもリスナーも僕一人だけの、架空の放送局。両親も「誠治が部屋から出てこなくなった」と心配するほど(笑)。そんな具合で全青春を洋楽の「FM亀田」にかけてしまっていたので、オフコースはおろか、それまで日本のポップスは、いわゆるヒットソング、キャンディーズや太田裕美さんなんかを耳にしていたぐらいでした。でも、オフコースは聴いた瞬間に魅了されましたね。
──亀田少年の心を掴んだ要因とは?
亀田:
今、こうしてプロのミュージシャンになった立場から、もちろんある程度は後付でもっともっともらしい音楽分析も出来るっちゃ出来るんですが、嘘はよくないですよね(笑)。当時の自分を正直に振り返ると、「FM亀田」の熱も少し落ち着いてきて、受験勉強もしなきゃいけない。太宰への憧れもある。10代特有の“生き辛さ”も抱えている。そういう風に心が揺れ動いている状況で、オフコースを聴いたとき、瞬間に、それまで聴いたことのなかった、透明度というか純度の高い音楽に出会った気がしたんです。声やアレンジももちろんですが、音楽全体としてそう感じたのを今でもはっきりと覚えています。いろいろな物から当時の自分を解き放ってくれた、偉大な存在でした。
──そこからオフコースは?
亀田:
夢中になってそのカセットを聴いて、その後、リアルタイムでアナログ盤を買いました。1979年年末にシングル「さよなら」が出て、世間で広まった頃の翌年が、高校一年生だったかな。オリジナルアルバムやライブ盤を買って、ライブ中の写真でデザインされたポスターも部屋に貼っていましたね。
──当時は、お小遣いをやりくりしながら?
亀田:
そうでしたね。頑張ってチケットを取って、ライブにも何度か行って。1982年の『over』日本武道館10日間公演も観ました。同年に放送されたNHK教育テレビ「若い広場・オフコースの世界」というアルバム『over』の制作ドキュメントには、いつかプロのミュージシャンに、音楽家になりたいという僕の募る思いをますます高ぶらせてもらいましたね。
──当時、魅かれた楽曲の印象については?
亀田:
僕にとっては、「ワインの匂い」、「心は気紛れ」なんかがそうでしたが、小田さんが切り取る女性像が大好きなんです。僕の中では、太宰が切り取る女性像ともよく似ているように感じられたんですよ。とかく太宰という作家は「斜陽」に代表される“生き辛さ”やデカダンスに焦点が絞られがちですが、女性の描き方にも凄みがある。女性の純粋性や少年性みたいなものを切り取る名手なんです。だから僕の中で、小田さんと太宰は並列なんです。オフコースの歌詞を、当時片思いしていた女の子と勝手に重ねてみたり、「心は気紛れ」の〈まるであなたはゆきずりのオンナのよう〉という歌詞を聴いて、「なんて大人びているんだろう」とドキドキしたのを覚えています。
──十代特有の感情ですね(笑)。
亀田:
もっとも、僕も高校に進学すると、初めて彼女が出来て、恋愛が徐々に空想からリアルな青春になっていったので、オフコースの聴き方も少し変わっていったんですが(笑)。「心は気紛れ」は、特にアルバムバージョンを数え切れないくらい繰り返し聴きましたね。オフコースの楽曲はベースラインもまた魅力的でしたから。そこも、いわゆる「洋楽かぶれ」だった自分の耳を捉えたのかもしれない。それとね、オフコースと小田さんは、実は僕の進路にも大きく影響を及ぼしていまして。
──進路、というと?
亀田:
小田さんは聖光学院中学校・高等学校という進学校から、東北大学を経て、早稲田大学大学院理工学部へ進まれましたよね。僕は憧れの存在と自分を同一視してしまうので(笑)、僕も進学校に進まなければ、いい大学に行かなければ、という思いに駆られました(※亀田は私立武蔵高等学校~早稲田大学第一文学部卒)。ちょっと嫌味に聞こえると恐縮ですが、成績は割と良かったので(笑)。オフコースって、“コースを逸れる”じゃないですか。「エリートコースから外れて音楽をやるバンド」、みたいなことを、たしか何かの番組で小田さんが言っていたような気がする。いや、もしかすると僕が勝手にそう思い込んだだけかもしれないけど(笑)。僕の親父は教育には厳しい人でしたので、本当は僕を東大に行かせたかった。ところが僕はもう音楽に夢中で、国公立を受験する気もなかった。親父に「大学はちゃんと入っておけ」と叱咤されながら、「小田さんもいい学校を出てるんだよなあ」という事実に、本当に背中を押されて早稲田を受験しましたね。あとはクイーンのブライアン・メイのように、ミュージシャンだけど実は天文学者、みたいな、インテリとしてのミュージシャン像にも憧れを抱いていた。受験といい、学業を疎かにせずにミュージシャンを目指すという道標といい、オフコースであり小田さんは、十代の僕にとって文字通り“目標”と言える大きな存在だったんです。
──なるほど。せっかくなので、現在のプロとしての亀田さんから見た、小田さんの音楽性についての“見立て”も聞かせてもらえますか?
亀田:
ファンの皆さんにとって釈迦に説法なのは重々承知ですが、小田さんは常にアレンジで曲をアップデートされるじゃないですか。「さよなら」も「Yes-No」も「ラブ・ストーリーは突然に」もそうですよね。原型は保ちつつも、常にアレンジで進化させていく。そこからご自身の音楽家としてのアイデンティティが伝わってくる。そこも、今でも僕にとっての指針であり目標ですね。もうねえ、収録やイベントでご一緒したとき、打ち上げの席でご一緒させていただいたときの、僕の小田さんへのぶら下がり様と言ったら(苦笑)。
──ああ、亀田誠治が亀田少年に戻っちゃうんですね?
亀田:
そうそう!「あのときのあれはどうしてああなったんですか?」とか、「あれはどういう思いで?」とか根掘り葉掘り。すごく面倒くさいやつになっていますから(苦笑)。後年、自分がプロになってから、改めてオフコースや小田さんのソロ作品を聴き、さらにイベントなどの機会にご一緒させていただいてよく分かりましたが、小田さんはアレンジに対して、その都度、常に明確なポリシーを持って臨まれる。僕も高校生になると、いわゆる“ニュー・ミュージック”と呼ばれた邦楽を聴き漁りました。ユーミン周辺の松任谷正隆さんやティン・パン・アレーの皆さん、矢野顕子さんや、松田聖子さんにおける大村雅朗さんといった方々のスタジオワークにも触れて、もちろんリスペクトはしているんですが、小田さんの美学というのは、そういったスタジオミュージシャンの方々とはまた全く異なるというか。
──そうですね。それは自分にも分かります。
亀田:
ざっくり言うと、ヘッドアレンジ感が無いんですよね。「何となくセッションからみんなで作りました」ではなくて、全てが綿密に組み立てられている。それはもちろん楽器のアレンジに限らず、コーラスの積み方もそう。やっぱり、的確な譬え(たとえ)としては“建築”なんでしょうね。はじめに設計図と基礎ありきで、サウンドもハーモニーも建築物のように美しい。この点については後ほどまたお話ししますが、実際に小田さんからもそういうお話しを聞かせていただきました。小田さんの音楽を聴いて吸収したことが僕の美学の根幹を形成しているのはたしかです。
──そう思うと、やはり十代に何を聴いて、どう心を揺さぶられるかは、非常に大事ですね。
亀田:
まったくですね。僕は「オフコース学院」、「小田和正大学」出身(笑)。
──小田さんとの実際の接点については、どのような年表になるのでしょうか?
亀田:
まずご一緒させていただく前に伏線があったというか。2002年の「クリスマスの約束」で、小田さんが、僕がアレンジャーとして関わった椎名林檎さんの「ギブス」のカバーを歌ってくださって、すごく感動させていただいたという流れがあって。
──成り立ちも趣旨も異なりますが、「クリスマスの約束」と日比谷音楽祭は、総じて音を媒介にジャンルを超えたアーティストが集まる点は共通していますね。
亀田:
あの番組こそ、ものすごい設計じゃないですか。ドキュメント映像を見ても、小田さんの中できちんとした設計図があるからこそ、あれだけの顔ぶれの皆さんをまとめられるのだと思うし、「これくらいでいいや」という妥協が一切ない。後年、日比谷音楽祭をはじめたとき、そこでもまた小田さんが“目標”になった。小田さんが音楽のためなら自分自身の全てを注ぎ、キャストに容赦なくリクエストを要求していく姿は、僕にとっての教科書みたいなものですね。あと、小田さんって、基本的に全て自分でやられるじゃないですか。アレンジャー/プロデューサーとして人の作品に関わっている僕が言うのもおかしな話だけど、そこも僕が小田さんの好きなところ。それはやっぱり設計に極力不純物を混ぜないということなのだと思うんです。その分、いろいろなハードルもカロリーも高くなるはずだけど、それでも「全て自分でやる」にこだわられてきたんだろうなあ、と、僕は解釈しています。
──最初にライブのステージをご一緒したのは?
亀田:
2005年でした。寺岡呼人君が主宰のライブイベント「Golden Circle Vol.8」でした。たしか僕と呼人君が二人で「小田さんに頼んでみようよ!」と話し合った気がします。
──憧れの小田さんとの共演は?
亀田:
それはもう(笑)。その時の集合写真は今でも宝物。制作部屋に飾ってありますよ。でも、やっぱりよく覚えているのは、先ほどお話しした打ち上げでのぶら下がり状態のとき、「音楽は建築と同じ。とにかく設計図が大事」というようなことをおっしゃっていらしたこと。ちゃんと設計図を書いて、しっかりとした強度を音楽に与えるのがアレンジだ、というようなことを語ってくださいました。僕、好きな人の言葉は、何度も反芻するタイプなんですよ。僕はアレンジャー/プロデューサーという立場での仕事が多く、そのアプローチはどちらかと言えばミュージシャンの力を借りつつ、スタジオでの空気や“揺らぎ”を取り込んで作っていくタイプ。ですので、小田さんとはスタンスもアプローチも異なっているとは思いますが、小田さんの言葉を反芻するように、時折、答え合わせをするんですよ。自分は小田さんの言葉のようにやれているかな?と。
──そこからのお付き合いは?
亀田:
2006年、2008年、2023年の「ap bank fes」、2007年、2017年の「森亀橋」(※森俊之、亀田、佐橋佳幸によるライブイベント)で、ご一緒させていただきました。一度、とあるイベントで小田さんにオファーをさせていただいたことがあったんです。でも、そのとき、小田さんから「皆さんや亀田君を否定するわけじゃないけれど、僕は全く関心の無いイベントなので」と、丁寧なお断りのお手紙をいただいたことがありまして。自分でオファーをしておいて何だけど、そういう丁寧さも、きっぱりとした姿勢も、たまらなく好きなんですよね(笑)。ほかにも、僕は2014年5月に行われた国立競技場最後の音楽イベント<JAPAN NIGHT>のなかの『Yell for Japan』という公演の音楽監督を務めたんですが、その背景には、自分と同い年の国立競技場が歩んできたヒストリーのなかでも強烈なイメージとして焼き付いていたのが、小田さんもご出演されていた1985年の音楽イベント『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』があったんです。
──ファンの皆さんは御存知の通り、あのイベントの以前、小田さんはオフコースの活動休止後、 “日本グラミー賞”の設立のために奔走されていた。吉田拓郎さんやユーミン、矢沢永吉さん、さだまさしさん、松山千春さん、加藤和彦さんらを集めて何度かミーティングもされたものの、様々な利害関係があって計画は頓挫。小田さんも挫折された。その後、1985年の「国際青年年」にあたって、「何か音楽の力でやれないか」という日本民間放送連盟からの提案を受けて、小田さんが全面協力されたというイベントでしたね。様々な流れを経て、小田さんのマインドが、他者、特に同時代のアーティストへの協力を惜しまないという姿勢に転換するきっかけとなったイベントだったと聞いています。
亀田:
はい。そこで、「小田さんと国立競技場」という文脈を、この機会に自分の中で再構築させたくて、小田さんにもオファーさせていただいたんです。でも、ちょうど小田さんはご自分の作品の制作期間に入られていた。それでも何とかギリギリまで交渉して、でもやはり難しいという判断になった頃、小田さんがやはりお手紙をくださって。「自分も声をかけて断られるときの切なさはよく知っているけど、今回はどうしても叶わない。また声をかけてください」といった内容の、本当に温かいお手紙をくださいまして。
──そうだったんですね。ほかに印象深い思い出としては?
亀田:
いろいろあるんですが、2011年の東日本大震災後にお会いした際、音楽と建築の流れから語っていただいた「強度」の話は印象深いですね。改めて設計の重要性から、時代が変化する上で、屈強な建築というものがいかに大切か、ということについて、建築用語を交えながらお話ししてくださいました。僕はそこから、小田さんの音楽が多くのファンに時代を超えて愛される理由の一片を見た思いでした。タイムレスな魅力を持った音楽は、設計者の明確な思いが込められた設計図と、堅牢な基礎があってこそなのだな、と。ちなみに、僕の中では、小田さんから「お前」と呼んでもらえたら一人前というか、存在を認識してもらえたというバロメーターになっています。今は「亀ちゃん」と呼んでもらえていますので、もうとんでもない昇格というか出世ですね(笑)。それともう一つ、東京・新大久保にフリーダム・スタジオというレコーディングスタジオがあって、僕がよく使うスタジオの一つなのですが、そこはオフコース時代の小田さんが、とにかくサウンドにこだわったことで当時のスタジオ使用時間の記録をどんどん更新していったという、言わば“聖地”の一つ。そこでも、僕は小田さんの魂をいつも感じています。
──小田さんとご一緒されて、ほかに改めて感じたことなど、強く印象に残っていることは?
亀田:
リハにおける姿勢でしょうか。僕がご一緒させていただいて小田さんのナンバーを演奏する際は、まずは小田さんが直近のご自身のライブにおいて、その曲をどういう風にやられているのかを研究し、それを反映させてアレンジを用意してお迎えするんです。僕にとっては、そのプロセスがまた楽しくて(笑)。リハーサルにおける小田さんは、やはりアレンジ、コーラス、ハーモニーに明確なビジョンをお持ちで、常に貪欲に、ベストな形を探求される。「ap bank fes」のときも、櫻井(和寿)君に、「このラインを歌ったらいいじゃない?」とか、「このハモリは何度で、君と君でやろう」と率先してイニシアティブをとってくださる。さらに、アレンジもプラスのアイデアを出してくださって、やはり実践してみると必ず良くなるし、ちゃんとその場のメンバーだからこそ出せるサウンドになるんです。
──先日、小田さんが出演された、今年の日比谷音楽祭へのオファーについて聞かせてください。
亀田:
実は、最初は、2020年のゲストとしてオファーをさせていただいていました。でも、その年はコロナで開催そのものが中止になってしまって。その後は小田さんご自身のスケジュールの関係などもあって、遂に今年に。つまり、4年越しのリベンジで実現した格好でした。
──今年のオファーについては?
亀田:
直接お会いして、僕から改めて日比谷音楽祭をどういう思いでやっているかをお伝えしました。小田さんはずっと黙って聞いていらっしゃいましたが、最後に一言、「亀ちゃんが呼んでくれるんだから、行くよ、俺は」と言ってくださって。
──それは痺れる一言ですね。
亀田:
本当に。
──「言葉にできない」、「たしかなこと」、「ラブ・ストーリーは突然に」という3曲のセットリストについては?
亀田:
僕からのリクエストの中に入っていた3曲でした。幾つかパターンを考えていましたが、とにかく小田さんご自身のお気持ちを優先したいと思っていたので。お話ししていくうち、すぐ、この3曲に絞られた覚えがあります。「ラブ・ストーリーは突然に」は、やっぱりレコーディングであのカッティングを弾いたギタリストの佐橋佳幸さんが日比谷音楽祭のハウスバンドであるThe Music Park Orchestraの一員だったという点も大きかったし、僕自身、日比谷音楽祭の実行委員長として、この国民的なヒット曲をお客さんにどうしても届けたいという思いが強くありました。自分としては、自信のあるセットリストでしたね。反対に、自信や組み立てが自分の中で見えなければ提案しない。
──それもまた、事前の設計図、ですね。
亀田:
本当だ(笑)。日比谷音楽祭については、特にそうですね。性格的に、自分の中で確信がないと、皆さんにお願いなんて出来ませんからね。小田さんも、「なるほどね」と納得してくださっていたように僕は感じました。
──リハーサルはどんな様子で?
亀田:
羽田スタジオで一時間くらいだったかと思います。今回はTheMusic Park Orchestraでがっつりと準備をして小田さんをお迎えして、ある意味、「まな板の鯉」になっていただいた感じでした。「言葉にできない」は、小田さんの弾き語りで入りますから、リハではみんなが入ってくる辺りからやりました。
──「ラブ・ストーリーは突然に」というのは、言うまでもなくとても切ない情景が歌われているわけですが、あの日比谷音楽祭では、日比谷ブロードウェイ(※井上芳雄、石丸幹二、遥海)の御三方を交えてお客さんとの大合唱に。フェス文化でよく言うところの“アンセム”のようでしたね。
亀田:
まさにそうでした。大衆の皆さんの曲ですからね。小田さん自身、僕に向かって、「自分で息吹を与えた表現がそれを超越したら、あとはもうみんなが歌って喜んでくれたらそれでいいんだよ、亀ちゃん。だから、アレンジも任せるよ」といったお話しをされていました。だから僕も、何と言うか、お客さんの勢い任せで期待するシンガロングでは駄目だ、と。ここで生半可なことをしたら十代の自分に顔向けできないぞ、と(笑)。そこで日比谷ブロードウェイの御三方とThe Music ParkOrchestraのコーラスの小田原“ODY”友洋くんを交えて、ハモのパートもオリジナルレコーディングを尊重した形の振り分けを考えました。佐橋さんにもコーラスを頼もうとしたんですが、「ギターに集中したい」と言われました(笑)。だから、本番のMCで小田さんが「この歳になって、急に新しい仲間が出来たイメージ」と言ってくださったとき、もう本当に嬉しかったですね。
──当時のライブを改めて振り返ると?
亀田:
僕は妻と一緒に何度か小田さんのライブを拝見しているんですが、彼女はライブを観ると、「会場に花が咲いていたね」と僕に言うんです。何世代にもわたるお客さんそれぞれの人生のいろいろな花が、小田さんの曲で咲き溢(こぼ)れる。それは言い換えれば、メッセージ性の本質とも言えるというか。あの日の野音の観客3,000人って、全員が小田さんのファンということでは決してないわけですよね。いろいろなアーティストが出ているし、ほかの方がお目当てで来ていたお客さんもたくさんいたでしょうから。でも、そこで小田さんが歌うと、たしかにいろいろな人生の花が咲くんですよ。強大なヒット曲の持つ力って、そういうことだと思うんですよね。しかも、小田さんがステージで「どーも!」と呼びかけるだけで、何だか全ての扉が開いてしまうような万能感もあるし(笑)。
──本当に、あの小田さんのステージはそういう時間でしたね。最後に、今後の小田さんに向けて、期待されることなどがあれば、お聞かせください。
亀田:
小田さんは基本的に独立独歩。インディペンデントで、「ここぞ」というとき以外はテレビにも出られない。そういう佇まいも、自分とは全く異なりますが、だからこそ、憧れも含めてリスペクトしかありません。そうした小田さんの独特な存在感は、年齢を重ねるごとに、柔らかく、透き通っていくというか。透明度がどんどん増しているような気がするんです。それは音楽シーンでの存在感に限ったことではなく、アーティストとしての在り方としても、日本で暮らしている70代後半の男性としても。今年、還暦を迎えた僕にとってもとても理想的だし、勇気をもらえます。少しでも小田さんの佇まいに近づけたらと思います。とにかく、まずは何よりずっとお元気でいていただきたいです。日比谷音楽祭のステージで、小田さんが日比谷ブロードウェイの御三方に向けて語られた「新しい仲間」に、もしこの僕、「亀ちゃん」も加えていただけているのであれば、今後とも、また良いタイミングで、何度でもご一緒させていただきたい。それが僕からの願いですね。小田さん、これからもよろしくお願いします!
インタビュー:「日比谷音楽祭2024」オフィシャルライブレポーター 内田正樹
Kazumasa Oda Tour 2025「みんなで自己ベスト!!」