早稲田大学建築合同クラス会1999講演会。
「建築・音楽・映画」
「まず最初に、何故、僕が音楽をやりたいと思うようになったのか、そもそもそのきっかけを話しておきたいと思います。もう昔のことですから、それほど明確ではないんですけど、聞くだけではなくて、自分の方から、音楽をやってみたい、と思い始めたのは、多分この時だった、と思うんです。家の近くに映画館がありまして、その看板が変わるたびにたいてい見に行ってました。邦画でも洋画でもまぁ、かまわず見ていたんですが、ある時見た映画音楽に非常に強い衝撃を受けました。その後、どうしてもそのメロディーが頭から離れない、その衝撃をもう一度確かめたくて、そのレコードを買いに行きました。それが僕の初めて買ったレコードです。タイトルも分らずに探したそのレコードは「ムーン・リバー」という曲でした。そしてその時、世の中にはこんな仕事があるのか、いつか自分もこんなことが出来たらいいな、と思ったわけです。けれど、映画そのものを作る、なんてことは、考えてみもしませんでした。1961年、僕が中学2年の時のことです。
いつのことだったか、うちのオフクロが、易者に見てもらって来て「お前は、台の上で仕事をするようになるらしい」まあ、今いるこんな感じの台の上だと思うんですけれど、もしかしたら先生にでもなるのかなと、べつにそれも悪くないと思いましたが、僕は当時もう医者になろうと決めていたので、まあそんなことはなかろうと考えていました。ところが高校2年の夏休み、千葉大の付属病院に見学に行きまして、これがとっても汚くて、なんだか途端に医者になるのが嫌になりまして、帰ってすぐに「医者は止めた、オレに向いていない」とオフクロに言ったところ「そうか、じゃ止めなさい」とまた簡単にオフクロが答えて、「そうかじゃあお前、役者はどうだ、役者はいいよ、何にでもなれるから」と無責任なことを言いましたが、小学校の時、僕が先生に無理矢理やらされた芝居も、別に評判にはならなかったし、自もなかったので、役者になるのは止めることにして、美術の先生にちょっと絵を誉められたことがあったので、「そうだ建築家になろう」と決めました。
そして僕は東北大に行きました。仙台はとても素晴らしい環境でしたが、なんとホームシックにかかりました。ぽくはあの~、ほんとは今もそうなんですけど、人見知りだったので、誰とも話しは出来ないし、もう、気持ちはほとんど自主退学というところでした。が、やがて友達も出来て、漸く建築の勉強が始まった訳です。その頃建築をやっていて、いちばん嫌だったのは、建築についてはっきりと好き嫌いが言えないことでした。音楽ならば、自分の感性のままに、好き嫌いを言えたのに、建築に関しては、間違ったことは言えない、という意識が強くて、堂々と、好き嫌いで物事を言うことが出来なかったのです。学科にはなかなかの論客が揃っていたし、ともかく建築というものが感性というより、むしろ言葉で語られていたような気がします。その間も、音楽はずっと一生懸命やっていましたけれど、いずれ卒業したら止めなくてはいけないんだから、記念にコンテストにでも出て、それで終わりにしよう、ということで、当時あったヤマハの「ライトミュージックコンテスト」っていうのに出たところ、なんと見事に予選を勝ち抜いて全国大会で2位になってしまって、止めるつもりがかえって心残りになってしまいました。
そこで思いついたのが大学院進学作戦と言うやつで。このままの形でもう少し音楽が続けられる、つまり、滅茶苦茶、優柔不断だったわけです。こんな風に言っていると、なんだかフワフワしているように聞こえるかも知れませんけれど、勉強もまぁそれなりにやってました。で、卒業設計で「アート・ビレッジ」というのを描きまして、その図面を、彩色仕上げにして提出したところ、「建築は絵画ではない」と主任教授に酷評されまして、なんだか、それでばかばかしくってとってもいやになって、「ここの上に行くのは止めよう。他だったらどんな評価を受けるんだろう、そうだ、早稲田に行こう」と思ったわけであります。そして、いろいろ調べて、池原研に行こうと決めて、一年間、勉強をしました。面接では、建築のことはひとつも聞かれませんでした。その時、持って来るように言われた、卒業設計を見て「これは、東北大ではどういう評価だったのですか」と聞かれて「建築は絵画ではない」と書かれました、と答えると池原先生は「これならうちじゃあ、地味な方ですよ」とおっしゃいました。早稲田は違う、来てよかったと思いました。それで、入学したわけです。
一年が終わって、どうしても音楽だけに専念したくて、あんなに無理して入れてくれた池原先生に、休学したいと言いに行きました。先生は「好きなことを思い切ってやってみなさい」と言ってくれました。ほんとうにひどい生徒だったと思います。音楽に専念するといっても、仕事は殆どなかったのです。でも、音楽には、自由がある。誰に束縛されることもなく、好きなように自分の世界が完結出来る、と思ったのです。その反動が建築に向けられることになります。どんなに環境を考えた設計をしても、その隣の醜悪な建物はどうすることも出来ない。それでほんとうに設計したことになるんだろうか。何をやっても、今の日本では、すべてが中途半端に終わるのではないか。建築にいちばん大切なのは計画それ自体じゃなくて、政治力なんじゃないか。別の力をつけてもう一度建築に戻った方が近道なんじゃないか。どんどん気持ちはもう建築には戻れないようになって行きました。そして、自分の気持ちに決着をつける積もりで「建築への訣別」という修士論文を書きました。多分、音楽をやっていても、なかなか認めてもらえないという、焦りがあったんだと思います。自分の力の無さを棚に上げて、世の中というものは、なかなかきちんとした評価をしてくれない全く当てにならないものだと、周りのすべてを、否定的に考えるようになっていたのです。
問題はその発表会でした。勢い余って余計なこと、不届きなことをたくさん喋りました。時主任教授だった安藤先生に、「じゃ、君は音楽は良くて、建築はダメだというのかね!」と大声で怒鳴られました。いやぁほんとうに腹が立ったと思います。気がついてみたら、発表会場に当てられていた、学会賞を取ったあの理工学部の校舎が、安藤先生本人の設計だということも忘れて、こき下ろしていたのです。傍聴していた生徒たちは無責任に、とても喜んでいました。そのざわめきが遠く聞こえて、なんだか急に冷静になって「ああ、これで終わっていくんだなぁ」と思っていました。その時の池原先生の困ったような顔が、忘れられません。恩を仇で返すというのはああいうことを言います。結局、少し怒りの収まった安藤先生に、「建築への訣別」というタイトルでは受け取れないから、タイトルを変えなさいと言われて、「私的建築観」と言う甚だ軟弱なタイトルに変えて提出しました。まぁ、これが建築と離れて行った顛末ですが、こんなこと言うときっと池原先生に怒られると思いますが、今思うと、とてもいい思い出です。僕は人生というのは、どれだけ思い出がたくさんあるかということじゃないかと、思っています。で、その発表の夜、もうなくなってしまいましたけれど、新宿にあった「ルイード」というライブ・ハウスで、ほとんど客はいませんでしたが、その客席を見ながら、今日、建築と訣別したんだよなぁ、と思いながら歌ってました。それも思い出です。「自由」の裏には、大変な戦いが隠されている、ということには気づかなかった頃のことです。その後、僕のやっていた「オフ・コース」というバンドが売れていくんですが、それを話していると、一日中かかるので、自慢しているように見えてしまうかも知れませんが、その結果だけ見て下さい。
オフ・コースをやっている間、多くのことを拒絶して来ました。周りを言用していなかったから、周りと関わるすべてのことが、煩わしかったのです。しかし、それで失って来たものもたくさんありました。そこで、一人になったときその拒絶してきたものを、ひとつひとつ受け入れてみようと考えたのです。つまり周りの人たちと交わること、それをスタートにしようとしたのです。需要と供給のバランスが取れるのは、ほんの一瞬です。それは恋愛が始まる時みたいなもので、利益を超えてお互いが惹かれ会う瞬間です。その時にこそ相乗効果が生まれて、想像を超えた仕事が出来ます。「オフ・コース」で拒絶してきたもの、いろんな話をもらってこんな機会はこれからもそんなにあることじゃないだろう。好きな様にやってみようと考えました。
需要供給のバランスということで言えば、僕にとってこれほど相乗効果が爆発したものはありませんでしたしこれからもきっとないでしょう。1991年の1月からスタートしたフジテレビのドラマの主題曲がばか当たりしたのです。
そして、ほかのアーティストのプロデュースをしました。考えてみると、その人に楽曲を提供するということは、その人の人生の一部を背負うと言うことです。自分のこと以上にプレッシャーのかかる仕事でしたが、これもまた思い出、思い出ということで、プラスに考えて、こんな人たちと楽しくやりました。
さて、思い出といえばこれほど、強烈な思い出はありません。キャディなんてことは、たいそう横道にそれているようにも見えますが、建築をやって来て、歌を歌っているわけだから、そんな風に考えると、そもそも、一生懸命やって来たことに横道なんてことはないんじゃないか、と思うようになりました。
この「キャディ」を見ていた、吉田拓郎が、僕に音楽のドキュメンタリーを作れと言いました。それは泉谷しげるが中心になってやった「日本をすくえ」というチャリティコンサートの番組制作です。キャディと併せてこの二本の制作が、実は、とても勉強になったのです。
「東京ラブストーリー」の順風に乗って、お金も集まったし、一気に映画制作へと飛び込んで行きました。芝居の「し」の字も、映画の「え」の字も知らないのに、東宝という大手の配給会社と組んで、全国一斉ロードショーというのをやりました。興行的にはなんとか成立しましたけれども、予想はしていたものの、映画評論家の批評たるや、凄まじいものがありました。映画を作ってしまったばっかりに、人間としてあれだけ貶されたのは初めてでした。音楽をやっていてもそんなに目くじらをたてて、叩かれるということはありません。間違っても「アイツは歌を止めるべきだ」と書かれたりはしません。でも、映画は違います、こっちが勝手に作ったんだから放って置いてくれ、と言ってもダメです。「もうあんな才能のないヤツに映画を作らせてはいけない」と書かれました。あれは評論と言うより、憎しみに近かったような気します。僕は、怒りに震えてこのまま死ぬわけにはいかないと思いました。で、この怒りは一生続いていくのかと思っているうちに、だんだん収まって行きます。時の流れの素晴らしいところであります。そして、次の作品を作るということは、決して誰かに対してのリベンジなんかじゃない、挽回しなくてはいけないのは、決して名誉とか、評判とかではないんだということがはっきりして来ます。そもそも、人に言われなくても、自分の作ったもんですから、なにがまずいのか分らないようでは、初めからやる資格もないわけで、そこを乗り越えるためにこそ次をやるんです。問題は、何をどう撮りたいかと言うことです。そしてあれこれ考えてるときにあるヒントがありました。それは何かと言うと、さっきの「キャディ」が放映された直後の、世の中の反応が今まで経験したことの無いようなものだったんです。世の中というとちょっと大袈裟ですが、見知らぬおじさんやおばさんが、なんだかえらく気楽に「あんた、キャディやってるの見たわよ」とか、「大変だったでしょ」「まあ、本当に偉かったわね」とか話し掛けて来るのです。ほんとに驚きました。どんなに僕の歌がヒットした時でも、こんなことはありませんでした。それがとても新鮮だったのです。そうか、みんなは、こうゆうのが好きなのか。じゃ、自分がほんとうに経験したドタバタを映画にしたら、みんな喜んでくれるかも知れない。そうだ、一本目の映画を作った時の話を映画にしちゃおう、と思ったわけです。
よく、一度やったら止められない職業ということで、指揮者と映画監が挙げられますが、それは演奏者やスタッフをまとめる力があっての上、ということを前提としなければいけません。今から25年ほど前、見よう見まねで初めてオーケストラの編曲をして、レコーディングをした時のことです。見たところオーケストラの連中には、僕より年下の人は一人もいなく、「よろしくお願いします」と挨拶しても、みな楽器をいじったり、互いに話をしていたりで、なんの返事もしてくれません。僕が誰かも知れないし、別に、誰かという興味も無いわけで、こういう状況で、みんなをまとめて行くのは、ほとんど不可能です。彼らは、演奏を終えるとこっちがオーケーも出していないのにいきなり楽器をケースに仕舞い始めました。それを引き止めて「もう一度お願いします」というには相当の覚悟が必要です、「何でもう一度やんの」と聞き返されて、汗びっしょりになりました。
一本目の映画で、初めて現場に入った時、この日のことを思い出しました。スタッフのみんなが、僕の力を探ろうとします。明らかに斜めから見ているヤツもいます。そのときはどんな顔をしていたのでしょう。結局何がなんでも、みんなをまとめなくては、という思いも、力及ばず、たくさんの悔いを残して、現場は終わって行きました。レコーディング・スタジオで、アレンジに明確な意志があると、音が出た瞬間に、彼らの顔つきが変わります。彼らの気持ちをつかんだ時です。この人は何かをやりたいらしい、それはいったい何なんだろう、と彼らが考え始めてくれた時です。二作目の映画にあたって、作品の完成度という前に、今度こそ、スタッフを引っ張っていけるんだろうか、というのが大きなテーマでした。撮影が始まってすぐ、ヒロインが、掲示板にポスターを貼るシーンを渋谷で撮りました。しかし、この時、美術部の用意したポスターのサイズが、その掲示板より随分小さくて、スタッフの間には、一際「あれ、サイズ間違えたな」という雰囲気がありましたが、些細なシーンでもあるし、これでOKにするんだろうと思っているようでした。まず、スケジュールに余裕はありません、後日とか、リテイクとかいう言葉は、タブーに近いものがあります。作業は淡々と進んで終えました。僕は、この時、構図のことも勿論ありましたが、何があっても、これはリテイクだと決めていました。もう一つ、夜のレストランのシーンを撮っていて、ようやく最後のカットになったとき雨が降って来ましたが、それでもテントを張ったりして、なんとか撮り終えました。レストラン側の都合と、削れる出費は極力抑えたいというプロデューサーの意向もあって、どうしても今日撮り切って欲しい、と言われていたのです。しかし、雨はともかく、急に寒くなったので、役者の息が白く見えている。これも、なんと言われようと絶対リテイクだ、と思ったので、そう言いましたが、みんな黙っていました。その現場を見てください。
このリテイクが、スタッフの気持ちにどう伝わったのかは、分りませんが、でも、僕はあれでよかったと思っています。僕が妥協するということは、僕に、何を撮りたいかという意志が、欠如していると言うことで、それは結局、頑張っているスタッフ達を裏切ることだと思うからです。
一体どうして、映画を作るんだという疑問があると思いますが、それは、自分が見たくなるような感性を持った日本の映画が無かったから、それを自分で作ってみようと考えたのです。そしてあの、「ティファニーで朝食を」を見て、僕が感動したように、誰かが、あんなふうに、僕の映画を見て感動してくれたらいいな、と考えたのです。音楽もそんな風にやって来ました。そして、なんと自宿過剰なやつ、と、思われるでしょうが、きっといい映画が自分には出来るはずだ、作らないで終わって行くのは絶対ダメだと思ったんです。
今、次の映画のことを考えていますが、なかなかこれを撮ろうというテーマに行き着かないでいます。よく、映画は監替のものだと言われますが、スタッフたちの貴重な、時間というものを預かるわけですから、彼らにとってもかけがえのない作品を準備しなければと思っています。僕は前回の映画がそれぞれ、みんなにとって、とてもいい思い出になったと思っているので、小田組と呼ばれるスタッフたちが、きっとその新しい脚本を、首を長くして待っていると、勝手に確信しています。
建築を勉強したことは、僕にとってどうだったんだろう、と考える方がいらっしゃると思います。建築は、いつも僕の側にいました。旅が多いので、あちこち行きますが、やっぱり建物が気になります。設計者の名前を尋ねて、聞いたことのある名前が出てくると、ふっと昔の自分に出会ったような気持ちになります。そして各地のホールで歌いますが、リハーサルでステージに立つと、本番では大体どんな雰囲気になるか想像がつきます。なんでこんなホール作っちゃったんだろう、と暗い気持ちになったり、あー、こんなふうに、分ってくれている人もいるんだと、ほっとしたりしています。建築で思いを果たせなっかった者として勝手な我ままを言います。
どんな小さな建物でも、一度そこに建ってしまえば覆い隠せないものです。それを毎日、目にするみんなの思いを汲んで、みんなが自分たちの文化に誇りを感じることができるような建物を建ててほしいと思います。そんな建物に出会うことが喜びです。
SAME MOON!! Kazumasa Oda Tour 2000