『TIME CAN'T WAIT』
早稲田大学で講演をした。別に緊張していなかったのにうまく喋れなかった。「こんなことを、この順に、こういう風に話そう」と事前に決め、その段取りに拘り過ぎたから。もっと自由に話してゆけば良かったのに。でも、それではやっぱり不安だった。質疑応答の方が却って思うように話せた。集中力もあったし。それまで、聴衆がどんな気持ちでそこに居るのか、殆ど分からなかった。授業をするというのは難しいのだろうと、勉強になった。
オフクロが死んだ。自分の極く身近な人で死んだ初めの人がオフクロだった。こんな言い方は少しおかしいかも知れないけれど、かけがえのない人だった。入院したのは1990年11月5日。武道館でのコンサートの初日で、心配するからと、自分には報らされなかった。全てのコンサートを終えてから、何度も見舞いに通った。オフクロの手なんて握ったのはどれくらい振りだったのだろう。励ますつもりだったかったから。手を離したのはいつもオフクロの方だった。「もう、いいよ」という気持だったのかも知れない。その意志を感じた。立派な最後だった。大ぜいの人たちが葬儀に参列してくれた。嬉しかった。オフクロはいささか心苦しかったに違いない。そういう人だった。人間はひとりで生きてはいないんだと、つくづく思った。親戚は勿論、仕事関係の人たちに、信じられないほど世話になった。第一生命のクリスマスのCMで、僕が一生けんめい橋の上を走るのを楽しみに見ていた。見舞いの人に「あれはニューヨークで撮ったんですよ」と説明していたと聞いた。「東京ラブストーリー」の三回目くらいまでは見ていた。「テンポが早いドラマだ」と言っていた。あの曲があんなにヒットするなんて誰も思っていなかった。横浜スタジアムで「MYHOMETOWN」というコンサートをした。西宮球場でも歌った。夏の終りの夕ぐれ、ほんとうに気持の良いコンサートだった。過ぎてきた何十年もの時が、そこに、ひとかたまりになって、同時に存在しているようだった。あの頃の自分も一緒にそこに居るみたいな気がした。あんなにたくさんの人が見てる前で全速力で走り、思い切り転んだ。運動会のリレーで転んだような気分だった。コンサートに来てくれた人たち、ほんとうにありがとう。来られなかった人たち、またの機会に。
厚生省の依頼で、ASKAが僕と一緒に曲を書いた。何か変だけど、そういう順序だったのだ。「僕らが生まれたあの日のように」という長ったらしいタイトルの曲で、出生率を活性化するためのキャンペーンの一端を担うことになるらしい。自分には子供がいないのに妙なことを引き受けたもんだが、人生なんてそんなところだ。色々なアーティストが参加してくれて楽しかった。皆、喜んで参加してくれたと信じている。ただのオレの気持だ、信じるくらい、自由にさせてくれ。
映画を撮った。勿論、ボロクソ書かれた。多分、言われたりもしただろう。自分がたまたま耳にしなかっただけだ。勝手に言いやがれ。「TIMECAN'TWAIT」で「映画を撮るんだ」と書いてから、凡そ二年後に撮り始め、三年後の現在、それがもうビデオテープになった。人は人生を一本の道でしか歩いていけない。幾つかのことを並行してやっていたとしても、交互に進めているだけで複数の道を意味しているだけではない。ひとつの時間にひとつのことしかできない、考えられない。二本の道を同時に歩けないのと同じだ。ただそこに「渋谷」とか「上野」とかの道標は無い。あったとしても、それは自分が仮に設定しているだけだ。「映画」「アルバム」「休養」と書いたところで、そこへ辿り着ける保障はどこにも無いし、それに誰も責めることはできない。
きっと「映画」へと辿り着く道は無数にあったのだ。しかし僕は自分の選んできたあの道しか知らないし、知りようもない。あの時、この時こんなことがあっそれぞれの人たちと出会って、それからまたちょっと、こっちがあって……。成るべくして成った、と運命論者は言うかも知れない。冗談はよせ。道は意志が決めてゆく。運命は結果だ。僕は二作目に向って、意志を持って進んでいる。
単行本のあと、ちょっと思い返しても僕にとって大きなことがこれだけあった。東南アジアのツアーもある。クラブ選手権も目の前だ。こんな風にして、時は流れてゆく。やっぱり、時は待ってくれない。
1992年9月
Kazumasa Oda Tour 2019 「ENCORE!! ENCORE!!」