★コメントタイプ:ひとり語り

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小田和正ツアーレポート(B-PASS ALL AREAより)


──昨日、今日、大変長らくお待たせしました。去年のチケットでは入れないかと思った人もいるかもしれません。今日は精一杯頑張ります、宜しくお願いします。


3曲目の「愛を止めないで」を歌った小田和正は、この日2度目の「どーも、ありがとう」を口にしてから手短にそう言った。
 すでに2曲目の「会いに行く」を歌いながら八の字状になったステージの花道を一周している。客席の近くに行きたいという彼の希望で2000年代に入ってから始まった前代未聞の形状は彼のコンサートのシンボルと言っていいだろう。
花道の外周に沿った2階席の壁に設置されたスクリーンに歌詞が映し出される。移動しながら歌う彼がどこにいても歌詞が目に入るし、おぼろげにしか覚えていない客席の方も安心して声を合わせることができる。
穏やかな笑みをたたえながら客席に向かって手を振り会釈をし、手拍子をするようにマイクを持った右手と左手を合わせ歌いながらゆっくりと歩みを進めてゆく。そんな姿は“歌う”ことが“会いに行く”を意味している彼の音楽活動を象徴するようだった。
 2023年6月29日、代々木国立第一競技場。小田和正のツアー『こんどこそ、君と!!』2日間公演の2日目である。
当初は2022年6月から行なわれたツアー『こんど、君と』の一環として8月に行なわれる予定だったもののメンバーと彼の相次ぐコロナ感染で行なえずこの日に延期になった。その2日間が振替公演として組み込まれ、全18本の新たな日程として発表されたのが『こんどこそ、君と!!』だった。
ツアータイトルの“こそ”にはいくつもの意味が込められているように思った。
何よりもの一つは、あの日に果たせなかった代々木公演への想いだ。二つ目にはライブは行えるようにはなったものの、マスク着用で声を出せないという去年の制約から解放されるという意味もあるだろう。
この日の開演前に流れたコンサートの諸注意のアナウンスは「今回から声出しOKになりました。一緒に歌ったり掛け声を出して楽しんでいただけたらと思います」だった。
いつもは事務的な告知に聞こえる声色が華やいで嬉しそうに聞こえた。それも“こんどこそ”という気持ちの表われのようだった。マスク姿とそうでない姿が入り混じった客席の反応も、当然のことながら去年とは違う。
2021年4月にNHKの「みんなのうたで」発表され、配信シングルとして発売になった新曲「こんど、君と」を書き終えて筆を置く姿で始まるオープニング映像の途中から登場するメンバーはオリンピックの選手入場の合わせたような軽やかにはずんだ拍手で迎えられた。
振替公演なのだから当然ではあるのだろうが、1曲目の「風を待って」と「会いに行く」は、去年と同じだ。「こんど、君と」も収録されていた去年の6月に出たアルバム『earlysummer 2022』の1曲目が「風を待って」で最後の曲が「会いに行く」だった。
「風を待って」の〈ずっと待っていた風が今、風が吹いた〉と「会いに行く」の〈会いに行く どこにでも〉。多くを語らず冒頭の1行に象徴される誰にでも伝わる虚飾のない言葉だけで想いを伝える。
人前で歌うどころか外に出ることすら憚られる中で早くその日が来てほしいという願いとともに作られたアルバムならではの1曲目と最後の曲だった。
5月3日のサンドーム福井で初日を迎えた9会場18本のツアー『こんどこそ、君と!!』は代々木が6会場目だった。同じ6月には去年オープンしたばかりの有明アリーナ東京公演を行なっている。
中間地点を過ぎて後半に向かう。ツアーは一期一会、毎日新しい課題と向き合っているとはいえ、日々の時間の過ごし方や体調も含めて最もライブに同化している時期と言っていいのだろう。スクリーンに映し出されるメンバーの表情にもそんな充実感が溢れていた。
声出しができなかった去年のツアーを見て今更ながら思ったことがいくつもあった。
それは、一言で言えば、これまでの“みんなで歌う”という一体感とは違うコンサートになっていたことだった。
客席の合唱や歓声と切り離されたような静けさの中での一つ一つの楽器の音色とか響き方、そこに歌が加わった時に改めて思ったことがいくつもあった。
例えば、メンバーがこんなに一緒に歌ってるんだと再認識したこともそうだ。ストリングスチームが楽器をハンドマイクに持ち替えて歌うコンサートを初めて見たような気がした。弾いてない時はほとんど一緒に歌っていたのではないだろうか。ストリングスチームだけでなく全員がコーラスをつけていた。 “伴奏”という概念はそこにはなく、全員で楽しみながら表現するという“チーム感”に溢れていた。
そのことを最初に気づかせてくれたのが、花道を一周して「会いに行く」を歌いメインステージに戻って歌った「愛を止めないで」だった。この日はそこに客席の歌声も加わり前回とは明らかに違う温かな音圧となって会場を包み込んでいた。
冒頭で触れた挨拶を済ませた彼は、「ではメンバーを」とひとりづつ紹介する。
バイオリン・金原千恵子、吉田翔平、ビオラ・徳高真奈美、チェロ・堀沢真己、ドラム・木村万作、キーボード・栗尾直樹、ベース・吉池千秋、ギター・稲葉政裕を紹介する。
スクリーンに映し出されたそれぞれの思い思いの表情が晴々としているようだったのは一緒に歌っていたことも影響しているのかもしれない。吉池千秋は今年の2月にガンのために58歳の生涯を終えた有賀啓雄に代わって去年の8月から参加している。キーボードの栗尾直樹とともにバンド結成時から加わっていた一人だ。いわば古巣に復帰したと言っていいのだろう。
コンサート受難の時代を抜けた最新アルバムの曲の後にオフコース時代の曲が続いて行く。メンバー紹介の後になつかしいイントロで始まったのは’84年の「夏の日」だった。あの曲はソロになってからはレコーディングされてないのではないだろうか。男性メンバーがコール&レスポンスのようなコーラスを聞かせている。
テレキャスターを弾きながら歌う小田和正は木村万作が刻むドラムに身を任せて気持ちよさそうだ。「愛を止めないで」のアウトロで稲葉政裕と向かい合ってツインギターを弾く姿もお馴染みのシーンになっている。
歌い終えてギターを外しハンドマイクに持ち変えた小田和正は、花道をゆっくりと歩きながら「表参道の青山通りを超えて左側のところに昔の事務所があったんだけど」とこんな話をした。



──手前にアンデルセンというパン屋さんがあって、横浜に住んでたんで車で帰るんだけど、そのアンデルセンもこの前のオリンピックで消えました。僕の幸せも消えました。時は流れます。フランスパンを齧りながら書いた曲をやります。


1日目、6月28日はこんな話だった。

──昔はレコーディングというと中には朝までになることもあったりして。なんでそんな時間になるかというと昼間は売れてる人たちが使うわけで。それでも僕らは若かったしレコーディングするのが楽しかった。50年も前のこと。そんなレコーディングをした曲をやります。


 そんな話をしながら歌い始めたのは’75年のアルバム『ワインの匂い』の中の「愛の唄」だった。
3枚目のアルバム『ワインの匂い』が、当時最長だった500時間というレコーディングを経て完成したことは有名だ。当時のレコード会社に契約金の額よりレコーディング時間を自由に使わせてほしいと希望したという話もある。
ただ、筆者が「愛の唄」が、カーペンターズを意識して書かれて、実際に英語版が彼らのところに送られていたという話を知ったのは2000年代になってからだ。当時の彼らにはそういうエピソードを語る場も語ってもらおうとするメディアもなかった。
’70年代のライブの定番曲でありながらかなり時間が経ってソロで歌われた「夏の日」もオフコースがロックバンド仕様になってから歌われる機会が少なかった「愛の唄」も当時から聴いてくれている人たちへの感謝の表われのようだった。
ここまで時間が経ったからこそ改めて思うこと。「愛の唄」は、まさしくそういう歌でもあるのだろう。レコーディングした時の彼は27歳だった。’75年は“70年代”が頂点に達した年でもあった。「愛の唄」の中の〈すぎゆくは若き日々〉や〈やさしい思い出〉への慈しむような詠嘆に耳を傾ける人は多くなかった。
そういう時代だったとしか言いようがない。同じようにカーペンターズが好きだったという井上陽水から「あの頃はそんなことは言えない空気だったよね」と聞いたのは20年くらい前のことだ。なぜならそういう音楽を好きと言うことは“軟弱”というレッテルを貼られることを意味していたからだ。「さよなら」や「Yes-No」をヒットさせた頃のオフコースがそういう扱いを受けたことが全てを物語っている。
「愛の唄」で歌われた〈永遠の生命も 名誉もいらない〉という歌詞も、まだ何も手にしていない20代の若者として歌われるより、数々の“記録”や“名誉”も手にした70代になった今のほうが本人はもちろんのこと彼と同じ時間を過ごしてきた客席の人たちにとっても全く違う重みやリアリティがあるのではないだろうか。初めて真正面から向き合って書いたと思える“愛”は、彼にとっての真摯な決意表明でもあったのだと今さらながらに思う。
どんなに時間が経っていようと過去の曲になっていない。そういう時を超えた曲が選ばれたコンサートでありずっとそういう曲を作ってきたのが小田和正だった。

──東北大を卒業して早大に入った頃、音楽をどうする建築をどうするのか優柔不断になっちゃったんですが、その頃に書いた曲を。


2日目、「愛の唄」を歌い終えた彼は中央の花道に置かれたピアノの前に座ってそう言いながら’73年発売のデビューアルバム『僕の贈りもの』の中の「水曜日の午後」を歌った。
コンサートの中盤に設けられた「日替わりコーナー」である。1日目は7月15日に静岡県掛川市の「つま恋」で行なわれた『apbankfes’23』でBank Bandが歌った「緑の街」だった。

──先日、テレビで「緑の街」を放送してくれました。その時から「緑の街」の中の音楽がずっと流れっ放しなので「緑の街」をやります。


CSの「ホームドラマチャンネル」ではツアー中の6月、7月と「小田和正セレクション」を放映、その中に’98年に公開された映画「緑の街」や映画のメイキング映像が流れる回があった。彼もあの時のことについてのインタビューで登場していた。
’92年に監督第1作で制作した「いつかどこかで」に次ぐ第二作「緑の街」は、音響設備が整っていない当時の映画館を避けてコンサートツアーのように自ら全国のホールに器材を運ぶ形で上映されたことも記憶に新しい。大手シネコンに頼らない映画上映ということでも画期的な試みだった。
そんな思い出話とともに歌われた日替わり曲を受けるように稲葉政裕の12弦ギターの繊細な響きがアクセントになった「言葉にできない」に繋がってゆく。毎回、ツアーのたびにあの曲の“ラーラーラー”が“小田和正健在”を証明する一つのバロメーターになっていると言っていいだろう。
ブルーとグリーンの光の中に背筋を伸ばしてピアノの上に置かれたマイクに向かう小田和正が浮かんでいる。声出しが可能になったにもかかわらず1万人を超す観客がどんな息づかいも聞き漏らすまいと息を凝らした静まり返った会場にきっぱりとしたハイトーンが沁みわたってゆく。
「言葉にできない」という複雑に込み上げる想いをあれだけ端的に歌った曲があっただろうか。あんなに引力のある曲があるだろうか。歌とともに時間が止まってしまったようだ。まるで魔法にでもかかったような会場の空気は駄目押しのような“ウーウーウー”で頂点に達しストリングスと12弦ギターとピアノの柔らかなアウトロでゆっくりと我に返って行った。
歌い終えた小田和正はゆっくりと立ち上がりアコースティックギターに持ち替えて上手のステージに向かい、2005年の「たしかなこと」を歌い始める。「言葉にできない」に次ぐ明治安田生命のイメージソングだった。
当時、筆者がやっていたFMNACK5のラジオ番組のインタビューで彼は「“言葉にできない”という曲と闘うことになった」と話していた。「あのCMがなかったら“闘ってみたいな”とも思わなかっただろう」ともだ。
“言葉にできない想い”をどう音楽にするかが’82年当時の小田和正だったとしたら、「たしかなこと」はかなり違う。一番大切なことは何なのか。一番確かな音楽とはどういうものなのか。「たしかなこと」をこんなふうに簡潔に歌えるまで20年以上かかったことになるのかもしれない。
 僕らはこの場所で同じ風に吹かれて同じ時間を生きている──。
 コンサート会場はそのことを確かめる場だ。僕らは同じ音を聴きながら同じような時間を過ごしている。
照明が変わる。客席の最上階から差し込んだ光が教会のステンドグラスのように会場全体を包んでゆく。再び右手のハンドマイクを持った小田和正は客席に近い花道を1周しながら歌い始める。
曲は「キラキラ」だ。歌いながら軽くジャンプするだけでなく小走りになったりするのは曲がそうさせるのだろう。時折2階席に目をやりマイクを離して客席の合唱を確かめて嬉しそうな笑みを浮かべる。
「キラキラ」が発表されたのは2002年。吹っ切ったように歌われる〈この時 この二人 ここへは戻れない〉は、その当時の彼にとっての「たしかなこと」の確認でもあったのではないだろうか。
コンサートの前半が終わろうとしている。
この日の取材メモにはどうやって判読するんだという乱雑な文字でこう書きなぐられている。
“前二回より声が出ている”──。



 小田和正の2023年のツアー『こんどこそ、君と!!』の案内をもらったのは5月の末だった。そこには有明アリーナと代々木の日程が書かれていた。
通常、取材であっても見ることができるのは1日とほぼ決まっている。その時に「できれば代々木の2回をお願いできますか」と返してしまったのは理由があった。
それは“これが見納めになるのではないか”ということだった。
2019年の『ENCORE!!』の後のコロナ禍はどんな人にとっても未経験の空白と転機に直面させることになった。
小田和正の久々の姿を見たのは、2021年12月1日、2019年以来3年ぶりに放送されることになった「クリスマスの約束」の収録だ。場所はお馴染みの東京ディズニーリゾートの舞浜アンフィシアター。でも、その時の印象は思いがけないものだった。
それはあれだけのキャリアの持ち主が、ステージで戸惑っているように見える姿だったからだ。ずっと人前に出ていなかったことがどのくらい異常なことだったのか。俗に言う“ステージ勘”を失っているように見えた。
それまでできていたことができなくなる。そして、今までいた人が突然この世を去ってしまう。同年代のアーティストや友人の訃報、更に引退のニュースをこんなに多く耳にしたのも今までにないことだった。
小田和正の一つ上で時代の最前線で戦っていた吉田拓郎が最後のアルバムとして『ah-面白かった』を発売したのがデビュー50周年の2022年の6月だった。
それは“遺書”のようなアルバムだった。自分のラジオ番組でそれまでの人間関係を整理したと話していた彼が’70年のデビューアルバム『青春の詩』の中の「雪さよなら」を一緒に歌っていたのが小田和正だった。
どんなアーティストにも終わりが来る。小田和正も例外ではありえない。そういう時が来るとしたら、その前に見慣れた会場での姿を見ておきたい。そして何かの形で残しておきたいと思った。
コロナ禍の空白からどう自分を取り戻してゆくのか。70代というハードルをどう超えてゆくのか。新作アルバム『earlysummer2022』を携えたツアー『こんど、君と』はその試金石に思えた。マスク着用、声出し禁止という中で行なわれたツアーは、密やかで繊細、静かな尊厳すら感じさせるものだった。
ただ、そうしたステージは“健在”という言葉とは違う印象だった。若い頃のようには歌えない自分を受け入れつつ新しい形を作り上げたように見えた。
もし次のツアーがあるとしたら、それが最後ということもあるかもしれないと思った。
結論から言ってしまう。
代々木の2日間は、そういう予想を遥かに超えていた。急遽、レポートを書かせてもらえないだろうかと事務所に打診して了解をもらえたことでこの特集が決まった。

「原稿にも書いたんですけど、去年のツアーの始まりの頃は、コロナ禍で小田さんも体力が落ちていたでしょうし声も出してなかったでしょうから、声は大丈夫なんだろうかとか、本当に緊張感があったんですよ。今年はリハから違いましたね。ゲネプロから割と声が出てたんで、むしろ淡々と始まった感じでした」

 そう言うのは11月22日に文芸春秋社から小田和正の評伝「空と風と時と 小田和正の世界」を発売したノンフィクション作家の追分日出子である。本の帯には「誰も書けなかった初の評伝全632頁」とある。
彼女は2022年~2023年のコンサートツアーを全行程同行取材していた。

「これは不思議なんですが、小田さんは去年の8月にコロナに感染しましたよね。その後に行なわれた広島公演から声が出るようになってたんです。あの時の広島は全国のイベンターの人たちも心配して集まってましたけど、みなさんホッとしたようでした。コロナ感染以降から前より出ていて、今年もそれが続いている感じでしたね」

同じように『こんどこそ、君と!!』ツアーの全行程に帯同しているのが映像監督の西浦清だった。
小田和正のファンクラブで発売している定期的なドキュメンタリービデオ「LIFESIZE」のスタッフとして小田和正に最も近い映像スタッフだ。
彼は「実は、全行程を一緒に廻ったというのは今回が初めてなんです」とこう言った。

「今までは一つのツアーで主要な会場を5、6ヵ所行って撮影するというのを続けていたんです。でも、毎年、小田さんの活動を30年近く記録していてひょっとして今回は最後かもしれないという気持ちもあって参加させてもらったという経緯ですね」

彼が初めて小田和正の映像を制作したのが、’79年のオフコースのアルバム『Three&Two』の中の「生まれ来る子供たちのために」のコンサート上映用に沖縄で16ミリで撮影したイメージフィルムだった。
「何年かは忘れたけど、初めて流したのが熊本市民会館だった」という彼の記憶を基に推測すると’79年10月から’80年に2月25日まで行なわれた『Three&Two』のツアーだろう。’80年2月11日に熊本市民会館というデータがある。彼を推薦したのは吉田拓郎や中島みゆきを取り続けている写真家、タムジンこと田村仁だった。
当時、コンサートでそうした撮りおろしの映像を曲に合わせて流していた例はほかになかったのではないだろうか。文字通り最初から関わってきている彼の目にこのツアーはどう映っているのだろうと思った。

「小田さんの中でご自身の総決算というか集大成というか、今までこんなふうに歩んできて現在こういう形でおりますというのを表現したいのかなと感じたツアーになってるように思うんです」
「何でそう思ったかというと、去年からMCで喋られていることがありますね。子供の頃、学生時代、東北大に行ってる時のことから建築との決別。オフコースでヤスさんと二人で廻っている頃のこと。小田さんは同じMCをしない、毎回違う話をすることを基本に考えておられる。ご本人はどこまで意識されてるか分かりませんが、ずっと聞いて行くと、生まれた時から現在までのストーリーのように思えるんです」

7月21日、札幌公演1日目の「夏の日」の後では「この中に旭川の人はいる?」と問いかけてからこんな話をした。
──もう50年以上前になりますが、ヤマハのライトミュージックコンテストの時に旭川のレコード屋さんが僕らのことを気に入ってくれて、旭川のバンドと一緒にコンサートをやってくれないかと言ってくれて喜んでやったんです。その後も旭川でコンサートをやるとお客さんも一杯入ってくれてとっても嬉しかった。

──札幌が入らなくても旭川があるから、と思っていたのがだんだん逆転してくるわけです。そうすると僕らの足もだんだん旭川から遠ざかってゆくわけで。自分でも薄情というか、後ろめた想いだったんですけど、ずっと感謝してますということを今日は伝えたかったんです。


7月22日、2日目は「道新ホール13人の話はもう何度もしたと思うのでみなさんご存じかと思いますが。そう言った悲惨な話はないかなと思ったらどうしてこの話を忘れてたんだろうと」とこう続けた。
──これも札幌の話かと思ってよくよく考えたら違うんで場所はあえて伏せておきますが、バンドと一緒にコンサートに行ったんです。そしたら直前にここは会場じゃないぞという情報が入った。違う会場に行っていた。ありえないでしょう、それ。

──どうするんだ、と言ってもどうしようもない。正しい会場へ移動ですよ。それもPAとかも自分たちで持って。しかもお客さんに手伝ってもらった。お客さんも楽しんでやってくれて、大いに盛り上がりましたけど」


 そう言ってから「会場は新潟でしたけど」と笑顔で明かして客席を沸かせていた。去年、ツアー『こんど、君と』がスタートした時、1年後にこんな寛いだコンサートが待っていると思った人がどのくらいいただろう。
西浦清は、そんな全会場を映像に収めていた。彼は小田和正と同じ1947年生れだ。そうやって全国を廻ることの体力的な負担も含め同年代だからこそ思うこともあるのではないだろうか。

「75歳にもなるとやっぱり考えますよね。同年代でおやめになる人もぼちぼち出てたりするわけで。彼の中でも年齢に対しての戦いというのはあったでしょう。それでも自分の歌を届けたい。エンターテインメントとしてお客さんに満足して帰ってもらいたい。ご当地もそれでしょうし。そういう小田さんがライブで立っている姿をビデオで納めておこうと。それが一番大きいですね」



彼らも含めたスタッフの話を聞いたのは7月20、21日の札幌真駒内セキスイハイムアイスアリーナの2日目だった。8月1、2日の横浜アリーナでファイナルを残した最後の地方公演である。
1日目の小田和正の第一声は「場内はすっかりファイナルモードだと思いますが、我々はまだまだ前へ進んでゆきます」だった。
夏休みに入ったばかりの札幌は、今年最初の猛暑日だったのではないかと思わせる東京とは別世界のような青い空とさわやかな風が吹き抜けていた。
真駒内セキスイハイムアイスアリーナは札幌市内から電車とバスを乗り継いで30分程度の便利な場所にある。緑に囲まれた会場の前の広場には車体に彼のシルエットのイラストが描かれたツアーの看板車が3台止まっている。
開場時間が近づくにつれてその前で記念写真を撮る人たちの列ができるのはどのコンサートでも同じだろう。でも、会館の奥にその何倍かのトラックが止まっている光景を目にする人は多くない。
あれだけのステージと照明の規模なのだから遥かに多い数のトラックが必要になることは容易に想像がつく。
舞台監督の長橋逹雄は、「東京から来ているのは電源車を入れて18台です。他に現地で調達する器材を運ぶものを入れたトラックが4,5台、多い時は全部で20台くらいあります」と言った。
ツアースタッフのリストには98名の名前がある。そこにミュージシャン関連を加えるとゆうに100名は越す。それ以外に現地だけのスタッフがいる。それだけの人数であのステージを支えている。
真駒内の会場に足を踏み入れて真っ先にこれまで見ていた代々木の第一競技場や横浜アリーナと違うステージが目に入った。
左右に広がる楕円形の横に長い部分、メインスタンドを背にするように組まれていたステージが通常のアリーナコンサートのように一方の端に組まれている。その分、いつもは横に長い花道が縦に長くなっている。
ドームツアーやスタジアムなどの野外大会場ではセンターステージだけでなく会場の何箇所かにミニステージが組まれているのは珍しくない。でも、アリーナツアーでこれだけ複雑な形態のステージを組んでいるツアーは他にないだろう。
長橋逹雄は「最初に見た時は驚きましたよ」と言った。彼は他界した前任者に代わって2018年のツアーから参加している。それまでは主にビジュアル系などのロックバンドを手掛けていた。小田さんは「オフコース世代の兄が聴いていたなということと“たしかなこと”がCMでよく流れていたなという程度の知識しかなくてまさか自分がやるとは思わなかった」とこう言った。

「ステージとセンターステージはよくありますしジャニーズやK-POPみたいにトロッコで客席を廻るのは珍しくないですけど、ぐるりと花道ですからね(笑)。全長は1周すると普通で160m、先日の山口は200mを越えてました。それだけじゃなくて各ポジションの上にはそれぞれに照明もある。あれは天井からモーターに引っかけて吊るんですけど、真駒内みたいに古い会場は重すぎて上がらない。うまいこと重量を分散させてるんです。実はこの間の代々木もそうで、天井には吊れなくてグランドサポートという4本の鉄の縦柱を立ててそこに吊りました。それに加えて客席の一番上にピンスポットが9人いてそれぞれのポジションで歌う小田さんを照らしているんです。僕が入る前からこうでしたからね。形として確立されて継承されている。ここまでやってる現場はないです。すごいと思います」

 ツアースタッフの中で最も古くから関わっているのが、オフコース時代から音響を担当しているエンジニア、セプト1の代表木村史郎である。小田和正のツアーも全て手掛けてきた。彼は真駒内のステージの形についてこう言った。

「ここは代々木や横浜みたいな楕円形じゃなくて建物自体が円形ですから横使いができない。客席をつぶさないで作るにはあそこしかない。花道は他よりも長くなりますよね。それでなくてもこの形はやりにくいはずなんです。演奏も実際に音を出してますから動けば動くほど音もずれて聞こえる。もし、イヤモニで演奏を聞いてなかったら歌えないでしょう」
「小田さんは声が出るんで花道で歌う時にマイクを離してしまう癖があるんです。そうするとマイクが他の音を拾ってしまうんであまり離さないようにとはお願いしてます。音だけでなくLEDのスクリーンとか照明の使い方とか20年以上色々トライしてきてこのパターンになった感じですね」

 彼が設立したばかりの音響会社、セプト1のエンジニアとしてオフコースに出会ったのは’76年のお茶の水女子大の学園祭だった。専任としてツアーに出るようになったのは’78年のツアーの宮城県石巻市民会館。その時の客席は「30人くらいだった」と言った。そこから欠かせない一員になった。
彼は今回のツアーをどんなふうに観ているのだろうと思った。

「やっぱり歌っていいぞ、っていう感じになってると思いますね。去年できなかったからでしょうけど、どの会場でもそう。昨日の札幌1日目もお客さんがものすごく歌ってた。あれはイヤモニをしてる小田さんにも聞こえるでしょうね。お客さんだけでなくスタッフも歌ってますからね。大人数の歌が欲しい時もあってやりだしたんですけど、今回は特に全体が歌ってる感じでいいですよね。ただ、お客さんは小田さんの歌を聴きに来てるんでそっちはあまり大きくは出せないです(笑)」

実は、あれだけのステージを毎回やるのだからそれなりにリハーサルにも時間がかかっているのだろうと思っていたのだが実際はそうではなかった。代々木も札幌も本人が加わったリハーサルは30分にも満たなかった。曲数にしてわずか5曲。そのうち1曲は4月に発売になったばかりの新曲「what’syourmessage ?」だ。9月まで放映されたテレビドラマ「この素晴らしき世界」の主題歌である。彼は「リハは出し惜しみでしょうね」と冗談を言いながらこう続けた。

「それなりに衰えてきてるとは思うんだけど、特に変わったところというのはないですよ。75歳であんなに元気な人いないです(笑)。さすがにあんまり走らなくはなったけど、走る時は走りますからね。もちろん声は毎日違いますけど客席で聞いていて分かるようなことじゃないですから。こっちから見ていると全然、まだできるじゃんという感じですよ。自分でも言ってましたけど、声を出してないとだめなんだって、出さない期間があるとやっぱり落ちてゆく。できる限り出したほうがいいんだって。そう思っている間はできると思いますね」

 声は前のツアーよりも出ている。
 これは話を聞いた誰もが口にすることだった。所属事務所、ファーイーストクラブの副社長、吉田雅道も「去年の本ツアーよりも今のほうが出てますね」とこう言った。
「身体的なことはよく分かりませんけど、喉に関してはかなりケアをするようにはなりましたね。ボイストレーニングみたいなことに関しては過去一番してるんじゃないですか。今までは基本的に身体を動かすことが好きだったんで、特別なことをしなくても出てたんです。それがコロナでできなくなった。実は’21年に名古屋のフェスに出た時に高域が思うように出なかったんです。それで先生に診てもらって喉や声帯の特徴を聞いたりしてそういうトレーニングをしなきゃいけないと70になって気づいた(笑)」

彼は7月15日から静岡県掛川市の「つま恋」多目的広場で3日間に渡って行なわれた『ap bank fes ’23』の話をしてくれた。Mr.Childrenの櫻井和寿と音楽プロデューサーの小林武史が地球環境を守ろうと地道な活動をしている人たちへの低利子融資を目的に発足した非営利団体、ap bankの原資を集めるために2005年に始まった野外フェス。小田和正は4回目の出演だった。
今年、同じ日に出演したエレファントカシマシの宮本浩次と櫻井和寿が隣りの楽屋でずっとボイストレーニングと思える声出しをしていた。それに比べて自分は今まで何もしてこなかったと反省していたというのである。

「前回からみんなでラジオ体操をするようになってたんですけど、今は、楽屋に入ってからミーティングとMCを考える時間とサウンドチェック、リハーサル以外は徐々に本番に向けてボイストレーニングしたり楽屋を走ったりしてます。声出しと身体を温めることに終始してる感じですね」



話をステージに戻そう。
会場には「ご当地紀行」の映像が流れている。
去年の『こんど、君と』と『こんどこそ、君と!!』で訪れた街の名所や縁の場所を訪れるという名物コーナーだ。
校歌を書いた福島県喜多方市の喜多方高校、8回目という愛知県犬山市の明治村、「ここは避けて通れない」という3年ぶり7回目の香川県金刀比羅宮、おなじみの所から初めて訪れる場所。たまたま居合わせた地元の人たちとの飾らない会話に小田和正の素の姿を見ることができる貴重な時間でもある。
同行しているのは担当している各地のイベンターだ。例えば金刀比羅宮の階段を一緒に昇った四国のイベンター、デュークの会長、宮垣睦男とは「おい。行くぞ」「お前、前より元気だな」というため口も交わされる。デビュー以来という同世代の付き合いはアーティストとイベンターの関係を超えている。
全国各地に同じ時代を共に生き抜いてきた戦友がいる。ツアーはお互いにとっての生きる糧になっている。
「ご当地紀行」の順番はどこの会場も同じではない。そのコンサートが行われている街の映像で締めくくられ後半への盛り上がりになってゆく。札幌で最後に登場したのが北海道の「ご当地編」。同行していたのがイベンター、WESSの常務取締役、若林良三だった。
彼が小田和正を手掛けるようになったのは2014年からと比較的ツアーと新しい。1963年生れと一世代以上若い。
彼は「僕は泉谷さんの担当をしてたんですが、小田さんと初めて会ったのは泉谷さんが奥尻島のチャリティーライブをやった時ですね」と言った。
1993年7月に奥尻島で震度6の「北海道南西沖地震」が発生。泉谷しげるは『お前ら募金しろ!──泉谷しげるのひとりフォークゲリラ』を都内で敢行、11月15日、北海道厚生年金会館で『奥尻島チャリティーコンサート』を行なった。そこに応援のために駆け付けたのが小田和正や忌野清志郎、桑田佳祐らだった。
 ’94年に発生した雲仙普賢岳の噴火災害救済のためにやはり泉谷しげるが音頭を取って吉田拓郎や井上陽水、浜田省吾、忌野清志郎ら世代を超えたアーティストが集まった“スーパーバンド”のまとめ役が小田和正だったことを覚えている人も多いはずだ。

「僕らの高校時代、女の子たちはみんなオフコースでしたからね。僕はロック系でしたしその趣旨に対して小田さんがすぐに賛同されたことにまずびっくりして。こんなに男気のある人なんだと思いました。声のイメージとは真逆でしたね。担当するようになって“お前の会社は見向きもしてくれなかったんだよ”と言われましたけど(笑)。それをストレートに言っていただいたのも嬉しかったですね」

──コンサートは後半戦に突入します。みんなで盛~り上がっていきたいと思います!


 「ご当地紀行」は小田和正のそんな締め言葉で終わる。
ステージの準備は整っている。木村万作のカウントに合わせて栗尾直樹がイントロのフレーズを弾いて始まったのが去年は歌われていなかった「theflag」だった。小田和正は赤と白が効果的な照明の中でテレキャスターを持って歌っていた。
舞台監督の長橋逹雄は「セットリストに思うことは色々あります」とこう言った。
「“愛の唄”のような優しい歌があったり学生運動の時代があったことを思い起こさせる“the flag”のように色んな葛藤があったと思わせる曲から“ラブ・ストーリーは突然に”とか“Yes-No”などのいつまでも変わらない曲もある。中には昔のヒット曲は歌わないと言う人もいますけど、そういうエゴみたいなものが全くない。稀有なコンサートだと思います」

小田和正の“世代観”や“時代観”を端的に伺わせるのが「the flag」だ。 “戦える武器を見つけてここに並ばないか”という歌詞に驚いた人も多かったはずだ。「ラブ・ストーリーは突然に」の爆発的なヒットでメディアから張られたレッテルは“ラブソングの教祖”だったのだから“武器”は想像外だったのではないだろうか。
収録されていた2000年のアルバム『個人主義』は50代に入った彼の心境が率直に反映された1枚だった。バブルの崩壊の中で訪れた不況の中で友人たちが直面していた人生の転機に思うこと。ステージ上の画面にはマスクをした客席の年配の男性の表情がアップされてゆく。あたかも「あなたの歌でしょ」と言ってるかのようだった。
80年代、90年代とそれ以降の変化の一つが男性客の多さだろう。男性の姿が増えた客席から「小田!」という声が飛ぶようになったのが『個人主義』以降ではないだろうか。
僕らはこの国の全てを変えることはできなかった。でも、音楽の流れは少しは変えることができたのではないだろうか。
この先どうなってゆくのか。彼は「僕は諦めない」と歌っていた。彼が掲げた旗は今も時代の風と客席の拍手の中で揺れ続けている。
思い入れのある曲から誰もが知っている曲、そして新曲。時を超えたそれぞれの曲が心地よいテンポで流れてゆく。
照明が変わる。赤や青、紫、緑、そして黄色。華やかなレーザー光線と夜空の星の瞬きのような光の中で「Yes-No」が始まる。当時、賛否両論だった〈君を抱いていいの〉はバンドのメンバーも一緒に歌っている。客席の合唱をストリングスが引き取ってゆく。
天井からミラーボールが降りて来る。曲は言うまでもなく「ラブ・ストーリーは突然に」だ。掛けていたエレキギターを外した小田和正はハンドマイクでブルーのネオンに縁どられた花道を歩き始める。
稲葉政裕と吉池千秋も上手と下手に分かれて歩きながら弾いている。半周してからメインステージの反対側ですれ違い、ハイタッチをしてそのままそれぞれ残りの半周に向かう。
二人は弾くだけでなくマイクポジションでは立ち止まってコーラスもする。会場全体を使うだけでなくバンドメンバーがこれだけ移動して歌うコンサートも珍しいのではないだろうか。
その真骨頂が13曲目の「風と君を待つだけ」だった。小田和正は前半とは違う黒の生ギターで歌っている。2番が終わってからだった。“ひとりにならないで~”という分厚いコーラスが聞こえてきた。
ステージ上にはメンバー以外の姿は見えない。30名はいるのではないだろうか。スクリーンに下手の袖の花道に向こうに黒い衣装で黒いマスクをしたスタッフがリズムに合わせて身体を揺らしながら歌う姿が映し出された。
“誇りを捨てないで”“諦めないで”“君がまた肩を並べて走り出すことを信じている”。小田和正一人だけではなくコンサート全体で伝えようとしている願いのようだった。
全員で作りあげる──。
それは歌っている人たちだけではなかった。長橋逹雄は、花道でメンバーの動きを追っているカメラを操作している人の中にはトランポのスタッフもいると教えてくれた。トラックを運転して器材を運ぶ人だ。
コーラスも映像もその時に手が空いてて興味のある人が担当する。長橋逹雄は「こんなにセクションを超えて一丸になっているチームはどこにもないと思います」と胸を張った。
吉池千秋のビブラホンで静かに始まったのは新作アルバム『early summer2022』の中の「ナカマ」だった。
そこにはたしかに〝ともに戦ってきた愛すべき仲間たち〟がいた。



 8月1日、最終会場となった横浜アリーナの1日目、小田和正は「小学校2年の時、横浜という名前の愛くるしくて上品な子がいた」という話をしてから歌った「愛の唄」の後にこう言った。

──高1の頃、よく学校からヤスと2人で話しながら帰った。試験の話や今一番何が食べたいかとか。フルーツパフェが多かったんだけど。ある時、ビートルズはいいなあ、という話になってちょっと歌ってみようかと歩きながら歌ってみたらすげえ楽しくって。

──ハモる時の感覚をあの時に知ったからこの道に入った。


曲は〈ここで夢を見てた〉で始まる「MY HOME TOWN」だった。歌詞に出てくる根岸線が開通したのが1964年、高校2年の時だったというテロップが流れる。あれから59年。その頃を知っている人が客席にも多いのだろう。会場のノスタルジックな空気が「言葉にできない」で浄化されてゆく。
横浜での最後の「ご当地紀行」は最終目的地・金沢文庫だった。駅前の商店街の中にある彼の実家の小田薬局はあの頃の雰囲気を残している貴重な建物だろう。「兄です」という紹介もあった。まさに“ご当地”そのものの“紀行”は同じ金沢区にある野島公園展望台で終わっていた。
8月2日の最終日は「最終日ということで変に盛り上げようと思うとコケるんで、いつもと同じようにやろうと思ってましたが、何と言っても最終日、盛り上がっていきたいと思います」という宣言つきだった。
メンバー紹介でスクリーンにアップされる2枚目ポーズやドヤ顔ありと表情や動作も陽気で派手だ。客席も一段と盛大な手拍子で迎えている。無事にこの日を迎えられた歓びが会場に溢れていた。「大谷(翔平)くんがホームランを打つとその日一日とても元気になる。僕もこうならないとと思ったり」というMCの後の「愛の唄」の伸びやかな声には若々しさすらあった。
西浦清が「自分のストーリーをたどっているよう」と話していたMCのテーマは中学生の時に映画館で見た「ティファニーで朝食を」だった。

──筋は分からなかったんだけど、音楽に感動してその曲をあちこちのレコード屋を探しても見つからなくて、ようやく横浜駅西口のヨコチクというところで「ムーンリバー」を買った。

──それまで映画はストーリーを楽しむだけで観てたけど、その頃から音楽を楽しみにするようになった。それでは「ムーンリバー」を。みんなもオードリー・ヘプバーンになったつもりで聴いてください。


 そういう冗句も最終日なればこそだ。ちなみに「ヨコチク」というのは横浜で最古のレコード店で20年前に廃業してしまったそうだ。音楽を取り巻く環境も激変した。英語の「ムーンリバー」の後に歌われたこの日の「言葉にできない」は、あの頃の横浜に向けたものだったのかもしれない。
 小田和正のコンサートが「教会」に似ていると思ったのはツアー中に70代になった2018年の『ENCORE!!』の時だ。
 ことさらに讃美歌が歌われたりしたわけではない。でも、会場の空気やステージと客席、歌と演奏が醸し出しているものが共通しているように感じた。
 それはあえて言えば“祈り”のようなものだった。 “許しあい”と言ってもいい。ステージと客席の間にエゴがない。若いアーティストが持ってる自己顕示とか上昇志向みたいなものがない。70という年齢がそうさせたのかもしれないし、若い頃のようには歌えないし動けないという自覚が達観につながっていたのかもしれない。
“老い”でも“衰え”でも“枯れる”ということでもない“濾過”。それが歌や音に表われていた。あたかも「ここに来れば泣いてもいいんだよ」と言われているような無私の包容力が教会のようだと思った。
そういう曲の代表が前半の「言葉にできない」と後半の「生まれくる子供たちのために」だった。
「ナカマ」を花道に立てられたマイクの前で歌った小田和正はピアノに座って一呼吸おいてイントロを弾き始める。 “弾く”ということさらな感じはまったくない。コーラスもバイオリンもベースもシンセサイザーもあくまでも音を添えるという感じだろうか。柔らかく細かで丁寧でひっそりしている。それでいて凛として透明な意志がほとばしっている。
ステージには星空のような小さな光が瞬いている。3階席からのスポットが教会のステンドグラスを通して差し込む光のように見えた。
「生まれ来る子供たちのために」が、オフコースとして初の大ヒットとなった「さよなら」の後のシングルとして’80年3月に発売になった曲という説明はもはや不要だろう。
2005年に結成されたBankBandの最初のシングルが「生まれ来る子供たちのために」だ。7月の『ap bank fes ’23』で小田和正が歌った「the flag」で始まる4曲の最後がこの曲だった。次の世代のバンドやアーティストにカバーされるという意味でもJ-POP屈指のスタンダードとなっている。
先述のFMNACK5の番組でのインタビューで彼は「生まれ来る子供たちのために」を出した時のことをこう言っていた。

「何考えてんだ、そんなメッセージソングなんて誰が聴くんだ。みたいな感じだったからね。でも、聴いている人はいたんだよね。わずかかもしれないけど、深く感じてくれた人たちがいて」
「俺も自分の“今、こういうメッセージを発信したいんだ”っていう想いだけで作ったから、ポツンポツンとでも感じてくれてる人はきっといるはずだ”みたいなことは思わなかったんだよね」
「オフコースは女々しいだなんて言われてたから、きっと誰かが感銘してるはずだとか、そんな信念はなかった」

 曲は「今日もどこかで」に代わっている。小田和正は再び花道に戻ってハンドマイクを持って歌い始めている。客席から透き通るようなコーラスが湧き上がってくる。ストリングスも交えてバンドの演奏もコーラスを支えているという感じだ。
人の声の調和がこんなにカタルシスを感じさせるコンサートがあるだろうか。
ほとんどが席を立っている客席も誰もが思い思いの拍手をしながら歌っている。合図はあっても強制も支持も要求もない。 “めぐりあって”“愛し合って”“許しあって”“つながっている”それぞれの人生がそこにあった。

──ほんとにみんなの歌声がほんとによく聞こえました。ほんとにどーもありがとう。今度こそ、が効きました。コロナとか色々ありますが、くれぐれも身体にお気を付けください。どーもありがとうございました。


 2年間のツアータイトルになった「こんど、君と」が始まる。メンバーのコーラスと客席の合唱に加えてスタッフコーラスが更に厚みを加えてゆく。歌声が呼び寄せたかのように天井からおびただしい数のハート形のフライングハートが降ってきた。
 歌は友達のように励ましてくれる、そして、みんなの気持ちをひとつにしていく。歌とはどういうものなのか。これ以上簡潔な答えはないような言葉が歌詞になっている。
本当に思っていることをどこまで無駄なくメロディーに乗せるのか。2022年の『early summer 2022』はその“境地”に達したアルバムのようだった。その最後はこう歌われている。

〈もう少しこの先へ行ってみよう〉

どこへ行くかは決まっている。
本編最後の曲「君住む街へ」だ。



「あの曲のレコーディングはよく覚えてますよ。’87年のツアーの合間に六本木のソニーのスタジオに機材を運びましたね」

 ファーイーストクラブの制作担当、望月英樹は「君住む街へ」についてそう言った。オフコースの’87年のツアー『as close as possible』の合間を縫ってレコーディングされて後半から終演後のBGMで流れるようになった。最後のツアーとなった’88年から’89年にかけての『STILL a long way to go』では本編最後に歌われた。バックで流れた映像の中学生の笑顔の瑞々しさに涙しそうになった記憶がある。
 あの時の中学生はもう50代になる。オフコースのコピーバンドをやっていた縁でオフコースカンパニーに加わった横浜出身の彼も来年還暦を迎える。「でも一番若いかな」と笑った。バンドの解散で事務所も解散。小田和正のソロ活動に合わせて発足したファーイーストクラブが発足時は小田本人を入れて5人だった、と言った。
 本編最後の「君住む街へ」はこれこそ最終日と思わせるシーンとともにあった。
 歌の合間に客席から拍手が起きる。共感や賞賛や感謝や敬意。1万人を超す一人一人の感情を受け止めるかのように演奏のスケールや情感や音圧が厚みを増しながら高みに向かって押し寄せて行った。

──こんな年になって若い皆さんに拍手していただいて感謝しております。楽しくやらせていただきました。


1日目にそう言ったアンコールの1曲目は7月から放送が始まったばかりのテレビドラマ「この素晴らしき世界」の主題歌「what’syourmessage ?」だ。新しいツアーには新しい曲を。それも現役であることの証の一つだろう。
小田和正の誕生日は9月だ。この日は75歳最後のコンサートでもあった。

同じ演出でも会場の受け止め方は変わってくる。客席に巨大風船が踊った「またたく星に願いを」が特別なセレモニーの歌に聞こえたのはこの日だからでもあった。
風船を蹴り上げ「どーも!!」と何度も突き上げるように叫んで歌った“力の限りどこまでも連れてゆくから”という言葉がその後の「YES-YES-YES」に繋がってゆくようだ。
’82年6月30日、武道館10日間の最後にすべての演奏が終わって流れた「YES-YES-YES」に合わせて1万人が歌い始めたという伝説のシーンがある。
望月英樹は「往復はがきで申し込んだけど今回は残念ながらと書かれて戻ってきました。後で聞いて衝撃でした」と言った。他の日に観に行った筆者もそこにはいない。
その日、武道館のPA卓にいたのが木村史郎だった。

「客出しの時に出したらみんなが歌い出して大合唱になりました。でも、古くならないですね。何でなのかは分からないんですけど、今歌っても今の歌の感じがしますね」

レゲエにアレンジされた「YES-YES-YES」には、思い詰めたような若い頃とは違う気持ちの“ため”がある。そんな起伏が“振り返らないで”“連れてゆくよ”で極まってゆく。覆面姿のスタッフコーラスの歌声も加わっている。
サビのメロディを歌うのは客席だ。 “連れてゆく”“あなた”は客席が小田和正に向けられたように聞こえる。あの客席がなかったら彼もここまで来れなかったのかもしれない。小田和正のコンサートの原点にあの曲があるのではないだろうか。
最終日の2度目のアンコールは1日目に本編で歌われた「MY HOME TONW」。そして「hello hello」を演奏し終えたメンバーを紹介してゆく。呼ばれた順に前に出て全員で「また会う日まで」をアカペラで歌うのがいつもの最後の場面だった。
この日は違った。ハンドマイクで一人一人の名前を告げていた小田和正は最後に「そして、ずっと一緒だったベース・有賀啓雄」と言った。画面には有賀啓雄の生前の姿が映し出された。
改めてメンバーに対して感謝の言葉を伝えて「また会う日まで」が歌われた。
最終日はそれでも終わらない。
3度目のアンコールは手拍子の中で始まったこの日2回目の「こんど、君と」だった。
歌い終えてからのダメ押しのような「どーも、ありがとう!」を次に聞くことができるのはどんな季節なのだろうか。
ツアー『こんど、君と』『こんどこそ、君と!!』は無事終了した。画面に1990年から始まったソロツアーの年号と写真が映し出されてゆく。その最後にこんな言葉があった。

“みんなでまた会いたいね”

これが見納めになるはずがない。

 音楽評論家 田家秀樹
Kazumasa Oda Tour 2025「みんなで自己ベスト!!」