★コメントタイプ:ひとり語り

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東北大学工学部工学研究科トップリーダー特別講義


はじまり~映画制作


 今日は建築の同級生の三橋くんに何を話してもいいからと呼ばれてやって来ました。卒業してから、君たちの参考になるような人生を生きては来なかったので、興味を引くような話ができるかは甚だ疑問ですが、その時々考えたことを話したいと思います。最近は記憶力が著しく低下しているので、原稿を読ませていただくということで…。では、まさかとは思いますが、間違ってもメモを取ったり、というような下らないことは止めてください、そんな立派な話はひとつも出て来ないことになってますから。それでは、建築を止めて音楽をやるようになった、その辺りのいきさつから辿ってみたいと思います。

 そもそも何故音楽をやろうと思うようになったのか、聴くだけでなく自分から音楽をやってみたいと思い始めたのは、この時だったと記憶しています。家の近くに映画館がありまして、その看板が新しく変わるたびに大抵見に行っていましたが、ある時みた映画の音楽にとても強い衝撃を受けたのです。その後、どうしてもその音楽が忘れられなくて、そのサウンドトラックを探しました。タイトルも分からず探したその曲は「ムーンリバー」それがボクの初めて買ったレコード、「ティファニーで朝食を」という映画の主題曲でした。そしてその時、世の中にはこんな仕事があるのか、いつか自分もそんことができたらいいなと思ったわけですが、映画そのものを作るなんてことについてはもちろん考えてもみませんでした。1961年ボクが中学2年の時のことです。
 高校2年の時、当時医者になろうと決めていたので、夏休みに、受験するつもりだった千葉大の付属病院を下見に行きましたが、そこは、昔はどこもそうだったんですが、消毒液臭くて、なんだか途端に医者になるのがイヤになりまして、その日のうちに医者は止めました。で、美術の先生に何度か絵をめられたことがあったので、そうだ、建築家になろうと決め、そして東北大へ入学したわけです。東北大を選んだいちばんの理由は何と言っても、川内の風景の素晴らしさでした。やはり仙台にも下見に来て、初めて、立ち並んだ白い教室を見た時、「ここに来よう」と決めたのです。高い建物もなく、本当に心惹かれるたたずまいでした。それと親を離れての下宿生活には、なんとも言えない憧れがありました。仙台は思ったとおり、素晴らしい街でしたが、なんと4月のうちに、予想もしなかったホームシックにかかりました。とにかく学校へ行っても誰とも話せない。それが何週間も続き、気持ちはほとんど自主退学というところまで行きましたが、やがて、なんとか友だちも出来て、ようやく建築の勉強が始まったわけです。
 学科で一番の変わり種は、あのタンポポ・ハウスの藤森照信君(建築家)でした。その風貌と博識なところから、僕らは彼をすでに藤森先生と呼んでいました。一度、彼の下宿を訪ねたことがありましたが、本棚が何重にもなっていて「こんなに本を読んでるのか」と驚いたのを覚えています。多分、学科でいちばん下手くそな図面を描いていた藤森くんが、あんなに有名になって、学会賞までもらって、ほんとうにビックリしました。ちょっと前に彼と対談をする機会があったのですが、そこでは逆に藤森くんに「ずいぶんと軟弱な歌を歌うヤツだと当時、思っていたけど、まさか売れるとは思ってなかった」と言われてしまいした。時の流れというのは、つくづく分からないものだと思います。
 3年の時、大学立法に反対して大学紛争は始まりました。とにかく誰が、何が正しいのか全く分からない。それでも、東大都市工学科のストライキを追うようにして、我が建築学科もストに突入、連日朝から会議が続きました。あれは、ある夜の片平キャンパスでのことでした。講義が面白くて人気のあった建築の教授が、あの時、たまたま工学部長だったので、学生との団交で、何百人もの生徒たちに囲まれて「自己批判しろ」と吊し上げられているのを見て、とても悲しい気持ちになりました。東北大生は仙台市民に愛されていると聞かされていたし、実際にそういう扱いをしてもらっているなぁと感じたことが何度もあったので、傍若無人に東一番丁をデモ行進した時は、市民を裏切っているような申し訳ない想いでした。その頃は自炊していたので、夜遅く会議しているところへおむすびと、かきたま汁を作って差し入れして、大いに感謝され、とても照れ臭かったこともありました。遠い思い出です。コンビニなんてものはまったくなかった頃のことです。大学立法が成立した時は、なんとも言えない空しさが残りましたが、ストライキを解除して、講義が始まって本当にホッとしました。その頃建築をやっていて一番イヤだったのは建築についてはっきりと好き嫌いが言えなかったことでした。音楽ならば自分の感性のままに好き嫌いを言えるのに、建築に関しては、なかなかの論客が揃っていたし、間違ったことは言えないという意識が邪魔をして、堂々と、好き嫌いで物事を言うことが出来なかったのです。音楽はと言えば、ずっと続けていましたが、卒業したらいずれ止めなくてはいけないのだから、記念に、当時アマチュアの登竜門だった、ヤマハのライトミュージック・コンテストに出て優勝して、それで潔く終わりにしようと決めて臨んだところ、全国大会で2位になって、止めるつもりが却って心残りになってしまいました。
 そこで思いついたのが大学院進学作戦でした。大学院へ行けば、このままの形で、もう少し音楽が続けられる、つまりメチャクチャ優柔不断だったのです。もうすっかりホームシックを克服した僕は、今や後ろ髪を引かれる想いでしたが、東京の大学の建築はどんな感じなんだろう、と興味があったので、研究室の桂先生に相談しました。桂先生はとても優しい先生で、僕らをいつも、自分の子供のように可愛がってくれました。学科には、もう一人、小田というのがいて、みんなに「和正」と呼ばれていたので、卒業してからも研究室へ遊びに行くと、「和正、よく来たな」と喜んでくれました。で、その桂先生が、「和正なら早稲田の池原研がいいだろう、受ける前に挨拶に行った方がいい」と推薦状を書いてくださったので、それを持ってなんと、(その)池原先生の御自宅へ会いに行きました。あれは雨の夜でした。先生は「それじゃあ、もう定員はいっぱいだけれども、受けるだけ受けてみなさい」と言ってくれました。入学試験の後、面接というのがありまして、その時卒業設計を持ってくるように言われました。卒業設計に"アート・ビレッジ”というのを描きまして、その図面を彩色仕上げにして提出したところ、同級生たちはみなめてくれたけれど、主任教授に「建築は絵画ではない」と酷評されました。面接で「これは東北大ではどういう評価だったんですか」と聞かれて「建築は絵画ではない」と書かれました、と答えると池原先生は「これならウチじゃ地味な方ですよ」と言われて「地味かあ、こりゃ受からないなぁ」と思ってたら入れてくれました。合格です。
 ところが1年が終わって、どうしても音楽だけに専念したくて、あんなに無理して入れてくれた池原先生に、休学したいと言いに行きました。緊張しましたが、先生は「スキなことを思い切りやってみなさい」と優しく言ってくれました。「音楽に専念する」と言っても、当てがあった訳ではなかったのです。でもとにかく、音楽には自由がある、誰に束縛されることもなく、好きなように自分の世界が完結できると思ったのです。その反動が建築に向けられることになります。どんなに環境を考慮した設計をしても、その隣の無計画な建物はどうすることも出来ない。それで本当に設計したことになるんだろうか。どう考えても中途半端にしかならないのではないか。建築に一番大切なのは、設計それ自体ではなく、政治力なんじゃないか。別の力をつけて、もう一度建築に戻った方が近道なんじゃないか。どんどん気持ちはもう建築へは戻れないようになって行きました。そして自分の気持ちに決着をつけるつもりで「建築への決別」という修士論文を書きました。
 問題は論文発表の時でした。論文のタイトル通り力んで臨んでいますから、勢い余って余計なこと、不届きなことをたくさん喋りました。気がついてみたら、発表会場に当てられていた、学会賞を取った理工学部の校舎が当時主任教授だった安東勝男先生の設計だということも忘れて、本人のいる前で扱き下ろしていたのです。安東先生に「じゃあ君は音楽は良くて建築はダメだと言うのかね」と大声で怒鳴られました。本当に腹が立ったと思います。傍聴していた学生たちは大いに盛り上がっていましたが、そのざわめきが速く聞こえて、なんだか急に冷静になって、ああこれで終わって行くんだな、ここに桂先生がいらしたら何と言うだろうと考えていました。あの時の池原先生の困ったような顔が忘れられません。恩を仇で返すというのはああいうことを言います。結局、少し怒りの収まった安東先生に「このままでは受け取れないからタイトルを変えなさい」と言われて、「私的建築観」という基だ軟弱なタイトルに変えて提出しました。これが建築から離れて行った顛末です。こんなことを言うのは真に不届きですが、今思うと、いい思い出です。その夜新宿のルイードというライブハウスで、ほとんど人のいない客席の前で歌いました。
 「実は、今日建築止めて来ました」と客席に向かって言いたかったけれど、そんなこと言っても誰にも関係ねぇな、と思って止めました。曲を作り始めて、設計をするのとよく似てるなぁと思いました。作るという作業はどの分野でも同じような道筋を辿るのでしょうか。
 やがて僕のやっていたオフコースというバンドが売れ、そして解散していきます。これは最後の東京ドームでのコンサートです。(ライブ映像)オフコースをやっている間、多くのことを拒絶してきました。そこで一人になった時、それを一つ一つ受け入れてみようと考えました。つまり「周りの人たちと交わること」それをスタートにしようとしたのです。需要と供給のバランスが取れるのはほんの一瞬です。利益を超えてお互いが惹かれ合う瞬間です。その時にこそ相乗効果が生まれて、想像を超えた作品が生まれます。オフコースで拒絶してきたぶん、いろいろな話をもらって、こんな機会は、これからもそんなにあることじゃないだろう、好きなようにやってみよう、と思いました。これはボクが制作に携わったCMです。(CM映像)
 ボクにとってこれほど相乗効果が上がった作品はありませんでした。1991年の1月からスタートしたテレビ・ドラマの主題曲がバカ当たりしたのです。「東京ラブストーリー」というドラマでした。信じられないことですが、それももう、君たちが、まだ生まれる前ということになってしまいました。そして他の歌手やアーティストのプロデュースをしました。その人に楽曲を提供するということは、その人の人生の一部を背負うということです。なかなかプレッシャーのかかる仕事でしたが、これも思い出ということでプラスに考えて、こんな人たちと楽しくやりました。

 思い出といえばこれほど強烈な思い出はありません。ある、いきさつがあって、あの青木さん(プロゴルファー)のキャディーをやることになりました。人生の中のたった3日間の出来事でしたが、今だに鮮烈に焼き付いています。
 さて、このキャディーをテレビで観て面白がっていた、吉田拓郎が僕に「音楽ドキュメンタリー番組を作れ」と言いました。それは1994年に泉谷しげるが中心になって行われた、「日本を救え」というチャリティー・コンサートでのことです。キャディーと合わせてこの2本の制作が、実はとても貴重な経験になったのです。先ほどの「東京ラブストーリー」の順風に乗って、一気に映画制作へと飛び込んで行きました。芝居の「し」の字も、映画の「え」の字も知らないのに、東宝という大手の配給会社と組んでの全国ロードショウです。予想はしていたものの映画評論家の批評たるや凄まじいものでした。映画を作ってしまったばかりに、人間としてあれだけ貶されたのは初めてでした。音楽をやっていても、そんなに目くじらを立てて叩かれるということはありません。間違っても「アイツは歌を止めるべきだ」と書かれたりはしません。でも映画は違います。こっちが勝手に作ったんだから放っておいてくれ、と言ってもダメです。あんな才能のないヤツに映画を作らせてはいけない、と書かれました。評論というより憎しみに近いものに感じられました。とにかく、一生のうちであんなに腹が立ったことはありません、このまま死んで行くわけにはいかないと思いました。しかし、一生続いて行くのかと思えたこの怒りも、やがて治まって行きます。時が流れるというのはそういうことです。そして次の作品を作るということは、誰かに対してのリベンジなんかじゃない、挽回しなくてはいけないのは、決して、名誉とか評判ではないんだ、ということがはっきりしてきます。問題は自分が、何をどう撮りたいかということです。そしてあれこれ考えている時に、あるヒントがありました。それは、さっきのキャディーが放映された直後の周りの反響が、今まで経験したことのないくらい大きなものだったということです。見知らぬおじさんやおばさんが、何だかえらく気楽に「あんた観たわよ」とか「大変だったでしょ」とか「まあ本当に偉かったわね」などと話しかけてくるのです。これには驚きました。どんなに歌がヒットした時でもそんなことはありませんでしたから。それがとても新鮮だったのです。そうか、みんなはこういうのが見たいんだ。じゃあ、自分が実際に経験した失敗を映画にしたら喜んでくれるかも知れない。そうだ、1本目の映画を作った時のドタバタを映画にしよう、と思ったわけです。
 よく一度やったら止められない職業ということで、指揮者と映画監督が挙げられますが、それは演奏者やスタッフをまとめて行く力量があっての上、ということです。今から40年以上も前、25歳くらいだったと思いますが、見よう見まねで初めてオーケストラの編曲をして、レコーディングをした時のことです。見たところオーケストラの連中に、ボクより年下の人は一人もいない。「よろしくお願いします」と挨拶しても、みんな楽器をいじったり、互いに話をしていたりで、誰も返事をしてくれません。僕が誰かも知らないし、別に誰かという興味もないわけで、こういう状況でみんなをまとめていくのは、ほとんど不可能です。彼らは演奏を終えると、こちらがOKを出してもいないのに、いきなり楽器をケースにしまい始めました。それを引き止めて「もう一度お願いします」と言うには、相当な覚悟が必要です。「何で?」と聞き返されて汗びっしょりになりました。
 1本目の映画で初めて現場に入った時、この日のことを思い出しました。スタッフ全員が僕の力を探ろうとします。明らかに斜めから見ているヤツもいます。結局、なんとかまとめなきゃという思いも力及ばず、たくさんの悔いを残して現場は終わって行きました。レコーディングで、アレンジに明確な意志があると、音が出たその瞬間にみんなの顔つきが変わります。彼らが真剣に取り組み始めてくれた時です。
 2作目の映画にあたって、作品の完成度という前に「今度こそスタッフを引っ張っていけるのだろうか」というのが大きなテーマでした。初めから終わりまでの絵コンテも描いて臨みました。夜のレストランのシーンを撮っていて、漸く最後のカットになった時、雨が降ってきましたが、それでもテントを張ったりしてなんとか撮り終えました。レストラン側の都合と、削れる出費は極力抑えたいというプロデューサーの意向もあって、どうしても今日撮り切って欲しい、と言われていたのです。スケジュールにも余裕はありません。リテイクという言葉はタブーです。でも、雨はともかく、急に寒くなったので役者の息が白く見えて前のカットとは明らかにつながらない。何と言われようと、絶対リテイクだと思ったのでそう言いましたが、みんな黙っているだけでした。その現場を見てください(映像)。このリテイクがスタッフの気持ちにどう影響したのかは分かりません。でも僕はあれでよかったと思っています。僕が妥協するということは、僕に何をどう撮りたいかという意志が欠如しているということで、それは頑張っているスタッフたちを裏切ることになると考えるからです。

クリスマスの約束~東北大震災そして緑の丘


 2001年の初夏、TBSのスタッフが突然、僕の事務所を訪ねて来ました。用件はただひとつ、テレビで「さよなら」を歌って欲しいということでした。テレビの歌番組というものに出たことがなかったので、なんとか他のテレビ局を出し抜いて引っ張り出したい、というごく下世話な企みだったのだと思います。僕はテレビに出て歌うことにまったく興味がなかったので、断りました。数日経って今度は「今までなかったような音楽番組を一緒に作りたい」と形を変えた提案を携えて、彼らは再びやって来ました。
 「今までなかったような」という、極めて曖味な尺度ではあるけれど、自由やらせてもらえるなら、面白いものができるかも知れない、じゃあとにかくいろいろアイデアを出してみよう、と僕らはスタートラインに立ったのです。そして行き着いたのは、僕らがよいと思う楽曲を勝手に選んで、その曲を作った人に来て貰って一緒に演奏する、というごく単純なものでした。それは優れた曲をキチンと評価することこそが、日本の音楽が文化として育って行く唯一の方法だとずっと考えていたからです。エンターテインメントしつつ、気持ちは大上段という企画でした。
 しかしながら、それは決して簡単なことではありませんでした。考えた末、全7曲を選び、それを作ったアーティストたちに、番組主旨を説明した出演依頼の手紙を出したところ、その7人全員から「残念ながら出演出来ません」という返事が届いたのです。決して甘く考えてはいませんでしたが、まさかの全員アウトです。もう一度お願いしてみるという意見も、改めて他のアーティストを選んで当たってみるという意見も出ず、今にもこの企画が流れかけた時、意を決して、「オレが一人で歌うよ」と言うとプロデューサーが驚いた様子で「全曲ですか」と言い「うん」と答えると彼は「それでは番組にならないんです」と強く制するように言いました。カバー、つまり人の曲を歌うこと、がまだそんなに一般的ではなかった頃です。でも、オレたちは今までになかったような番組を作ろうとしているんじゃなかったのか。自倍も勝算もないけれど懸命に歌えば、心して選んだその曲が伝えたいことは、必ず聴いている人たちに届いてくれるはずだ、と思ったのです。
 その後ミーティングを重ね、さらにアイデアを出し合って、ついにスタッフ全員、僕が一人で全曲を歌うことに「じゃあ思い切ってやってみようか」と賛成してくれました。7人のアーティストに出した手紙の中に「もしあなたが残念ながら参加出来なかったとしても、僕はこの曲を一人で歌うことを約束します」と書いたので、番組のタイトルは「クリスマスの約束」としました。放映後の反響はとても大きく、TBSから、来年も「クリスマスの約束」をやって欲しいと依頼されて、まったく予想もしなかった展開になりました。誰もやったことのないことは、必ず大きなリスクを伴います。でもそこを乗り越えてこそ、誰も見たことのない場所へと、たどり着いて行くのです。それでは2001年第1回目の「クリスマスの約束」をちょっとだけ見てください(映像)。同じことを続け、重ねて行けばそれでよいこともありますが、多くの場合マンネリというレッテルを貼られます。去年よりも高いクオリティー、さらに喜ばれるものが求められます。クリスマスの約束もそうでした。「クリスマスの約束は本来こうあるべきだ」などという勝手な声も聞こえてきます。そんなこともあって第9回目になる2009年、かなりハードルが高いことは分かっていたけれど、前からやってみたかったことを提案しました。それは大勢のアーティストに集まってもらい、それぞれの代表曲を全員で歌い継いで行く、つまり集まったアーティスト分の曲数のメドレーを歌う、というものでしたが、それに対して、スタッフの反応は「それは、どこが面白いんですか?」という極めて冷ややかなものでした。この時も僕には、うまく行くという確信はありません。あるのは、もしこれを、みんなの力で仕上げて行くことが出来たら、そこには想像を超えた感動が待っているはずだ、という勝手に描いたイメージだけでした。でも、それを言葉にして説明しても、きっと分かってもらえないと思って、何曲か聞き覚えのある曲をメドレーにして聴いてもらいましたが、一人もノッてくれるスタッフはいませんでした。僕は大いに失望したのですが、これはCDをつないだだけのもの、みんなで実際に声を合わせて歌ったものを聴けば、きっと納得するだろうと考え、試しに何組かのアーティストにスタジオに入って、仮のメドレーを歌ってもらうことにしたのです。が、結果は同じ、今度はスタッフだけでなく、アーティストたちもその出来上がりを聴いて、全員が、これは止めた方がいいだろう、という表情になりました。それでも前へ進みました。でも、誰にも前へ進んでいるようには見えなかったかも知れません。ただ、きっとうまく行くはず、と信じる根拠はありました。それはみんなが、アーティストたちが本気になれば、そこからすべてが変わるはず、その一点です。
 本番で歌い終えた時の拍手は予想を遥かに超えていつまでも続きました。あの時のアーティストたちの達成感にあふれた笑顔は僕の一生の宝物です。これも簡単なことではありませんでしたが「みんなが頑張れば、こんなところへ辿り着けるんだ、諦めないでホントによかった」あの時こころの中でそう思っていました。
 それから2年後の2011年に震災がありました。いろいろ迷いアーティスト同士話合い、こんな時こそ楽しく歌ってみんなを元気づけよう、とさらに多くのアーティストに集まってもらって2009年より長いメドレーをやりました。

 2012年に東北大総長里見先生から手紙をいただきました。それは学生たちが、折りに触れ唄える、愛唱歌を書いて欲しいというものでした。僕は直ちに了承しましたが、きっとすぐには出来ないだろうと思って、必ず書くので、このことは誰にも言わず、二人の胸にしまっておく、ということにして欲しいと、ずいぶんと勝手な返事をしました。早く書かなければ、と思う気持ちとは裏腹に、曲は出来ず、あっという間に1年が経ったころ、楽天イーグルスの仙台での初戦の始球式に来て欲しい、という依頼があって、星野仙一監督は昔からの知り合いだったので、引き受けました。楽天が優勝した年、あの田中投手が24連勝したその最初の試合です。ボクは見事にストライクを投げたのはよかったのですが、その後控え室に戻ったら、倶然、球場にみえていた里見総長が、挨拶というか、多分プレッシャーをかけに来られたのです。このプレッシャーは効果抜群でした。帰ってから懸命に曲に取りかかりました。自由に書くと、どうしてもあの頃を振り返るばかりになってしまうので、現役の学生たちが自分の行く先を重ねられるよう留意して書きました。でも、多くの、僕と同年代の卒業生たちがきっと喜んでくれるだろう、そして、現役諸君にもそんな風景を思い浮かべて欲しい、という想いから、『立ち並ぶ白い教室』というところは残しました。で、「緑の丘」が完成しました。
 さてその年「緑の丘』をクリスマスの約束で東北大の混声合唱団に歌ってもらおうということになって、合唱団にお願いしたところ快くOKしてくれました。収録の翌日試験が控えているという学生もいたので、仙台から日帰りのバス往復という、たいへんな強行軍でしたが素晴らしい『緑の丘』を歌ってくれました。合唱団の諸君に、改めて感謝するとともに、いい思い出になってくれていればと心から願っています。

 最後に余談になりますが、僕にとってとても大切なことです。ツアーというのを長い間ずっとやってきました。コンサートをしながら全国あちこちへ行くあれです。オフコースをやっている頃からだから、もう全部で何度くらい回ったのでしょうか。行ったことのない都道府県はもちろんありません。コンサート会場は客席と一体となって、確かに大いに盛り上るのですが、次の街へ移動してはまた会場に入ってと、同じことを繰り返して行くわけですから、そこでどんなに盛り上がっても、やがて忘れて行きます。
 今、どこで歌っているのかも、分からなくなったりします。で、ある時から、それが空しく感じられ始めたのです。それにお客さんはその日が昨日とは違う、思い出に残る特別な日であって欲しいと思って来ています。なんとかそれに応えられないかと、ずっと考えていました。そして20年ほど前、ツアー先の街へ出てその様子を撮影したものをステージで映したら、地元の人たちに喜んでもらえるのではと思い立ち、三重県の四日市へ行った時、思い切ってそれを実行してみました。わずか2分くらいの映像でしたがこれが驚くほど受けました。今、この街へ来てコンサートをしているんだ、という事実、想いが、伝わり、スタッフを含めたこちら側も明確に「毎日が違う日」になったのです。
 それ以来この「ご当地紀行」はコンサートに欠かせない企画になりました。なかなか手間がかかりますが、ご当地紀行では多くのことを学びました。そしてなんといっても何ものにも代え難いたくさんの思い出を残してくれたのです。では去年のツアーからそのほんの一部を見てください。(映像)
 さて、人のプロデュースをしたり、キャディーをやってみたり、映画を作ったりと、たいそう横道に逸れたようなことをいろいろやってきましたが、建築をやって来て歌を歌っているのだから、やがて、そもそも「横道」なんてものはないんじゃないか、と思うようになりました。その都度巡り会った、とんでもない経験がいつか自分を助けてくれたり、さらにそれこそが、自分が本来求めているものに繋がって行くことだってあります。君たちにも、興味を持ったことには是非思い切って飛び込んで欲しいと思います。多くの先輩たちも言っているとおり、人生、無駄になることなんて決してありません。でも気をつけなければいけないのは、何をやるにしても、既成の概念にとらわれたり、人と同じ発想をしていては、結果、予想のつくものばかりになってしまうということです。敢えて風に逆らって、戦い続けて行きたいものであります。そして思えば、僕の周りにはいつも助けてくれる仲間がいました。君たちの、今の友だちがいつか、今よりもっと大切になる時が来ます。だからこそ、今という時をみんな大切に生きて欲しいと思います。

 建築を勉強したということは、僕にとってどんな意味があったのでしょう。建築は青春でした。建築はいつも僕のそばにありました。ご覧いただいたように旅が多いのであちこち行きますがやっぱり建物は気になります。設計者の名前をたずねて、覚えのある名前が出てくると、ふと昔の自分に出会ったような気持ちになります。建築で想いを果たせなかった者として勝手な我が儘を言います。どんな小さな建物でも、一度そこに建ってしまえば覆い隠すわけにはいきません。その建物と毎日接する人たちの想いをていねいに拾い上げて、みんなが自分たちの文化に誇りを感じることが出来るような建物を建てて欲しいと思います。そんな建物に出会えることが喜びです。ということで今日の僕の話はおしまいです。
ありがとうございました。

小田和正

Kazumasa Oda Tour 2016 “君住む街へ”