「クリスマスの約束2024」(最終回)放送
「クリスマスの約束」は一度切りで終わるはずの番組でした。
それが、懸命に戦ってくれたスタッフたち、音楽を愛するアーティストたち、そして何と言っても放送を楽しみにしてくれていた視聴者の皆さんに支えられて20回も続けて来れたのです。
くじけそうな時もたくさんありましたが、今振り返ればすべてが楽しい思い出です。
「クリスマスの約束」をやらなければ出会うはずもなかったたくさんのアーティストたち、そして一緒に番組を作ってくれたアーティストの仲間たちがいたから目指す番組が出来たのです。
僕の音楽人生の中のかけがえのない時間でした。
続けて来て良かった。今心からそう思います。
そして「クリスマスの約束」楽しみにしてますと言ってもらえるうちに番組を終わることにしました。
寂しいけれど、きっとそれがいいと思ったのです。皆んなほんとうにありがとう。ありがとう。
小田和正
★コメントタイプ:Q&A形式
★アーティスト:artist-1076
クリスマスの約束 自分の人生を劇的に変えてくれました。
2001年に始まった「クリスマスの約束」が最終回を迎えた。衝撃的ですらあった2001年の初回から23年、20回を重ねた。その斬新さ、貴重さ、息の長さ、すべてにおいて別格の音楽番組だった。今回、番組にずっと関わってこられたTBSの服部英司さんに、最終回編集前のご多忙ななか、「クリ約」の貴重な裏話を語って頂きました。
──一昨日、最終回の収録が終わりました。1回目から数えて23年。まずは、いまの心境をお聞かせください。
服部英司:
まず、終わった感覚がまだ全くないです。収録が終わってこれから放送に出すまで作業が多く、小田さんも僕等もこうなるだろうと収録に臨みますが、やはり僕等の想像を超えることがたくさん起きます。ですからもう一回、冷静に組み直さないといけない。本当に痺れる時間が収録直後から放送終了まで続きます。ことに今回は最終回、収録の時、僕は絶対、泣かないと決めていましたが、やはり「今日、みんなで集まるの、最後だね」とか、そんな言葉が出てしまい、やはり感傷的になったりしていました。しかし感傷的になると全体が見えなくなると、自分を諫めました。
──なるほど。どんな最終回の放映になるのか、楽しみです。それでは逆に、2001年の始まりについて、改めて当事者の服部さんにお伺いしたいです。
服部:
2001年6月、当時、元麻布にあったFar East Clubの事務所で、初めて小田さんとお会いしました。ざっくり申し上げると、そこから月2回くらい打ち合わせを重ねて、最終的に12月の放送にしようとなり、色々な人に手紙を書き、出演交渉しましたが、結果的に誰も来ないとなり、収録したんですが、実は、収録後、会社に嘘をついていました。
──どういうことですか?
服部:
実は2001年当時、一人のアーティストの特番って、ほぼなかったんです。ですから色々な人が出て、そのホストとしての小田さんならいいと、編成から言われていたのです。だから編成に「まだ誰か出ます」「でも、この間、もう収録していたよね?」「いや、別撮りして入れます」なんて嘘を言っていた。こちらはもう誰も出ないと分かっているので確信犯です。ただ、編成の担当はそれを知っていて、何も言わずにいてくれていたのだと思います。
──色々な面で、当時のテレビ局の常識とは違う試みだったんですね。
服部:
そもそも、最初の打ち合わせで「これまでにない音楽番組を一緒に作りたい」という思いを小田さんに伝えました。他にも小田さんの言葉を引き出そうと、色々と話しましたが、小田さんは、当初、全くニコリともしないし、凍りつくような打ち合わせでした。でも次第に、「これまでにないものには興味があるから、少し話していこう」という空気になりました。僕等、企画書を作っていきましたが、どんな企画書だったのか、全く覚えてないです。結局、それも出せなかった気がします。そんな空気ではなかった。
──どのあたりから、企画が動き出した感触がありましたか?
服部:
どのタイミングで、小田さんが僕等とやって下さると思ってくれたのか、正直、わからないですね。ただ毎回、最後に、次の打ち合わせはとなるので、僕等、まだ見棄てられていないなと。実は最初の打ち合わせが6月、テレビの特徴は短い時間で番組をつくるので、中身はわからないまま、最初は夏の特番を考え、さらに秋、さらに年末に。その頃はまだ番組名はなかったですが、アーティスト同士が讃え合う番組にしようとだけ決まって、8月、暑い頃、小田さんが手紙を書かれていたと思いますが、どこで信頼を得たのか、謎ですね。信頼なんかされていなかったのかも知れません。終わるまで。
──クリスマスというキーワードが出てきたのは、どのあたりですか?
服部:
(放送が)年末になったので(笑)。秋にやっていたら、違う「約束」でしたね。
──ゲストが誰も来ないというのも衝撃でしたが、当日の収録で、小田さんがあんなに軽妙に喋るというのは、想定内だったんですか?
服部:
通常は僕等が台本を作るのですが、小田さんはご自分で本を作ってきたんです。曲の前後に何を話すのか、書いてこられて。そのMCの原稿がすごく面白かった。ですから、ここのMCはこうなるとか、わかって収録しましたが、衝撃だったのは小田さんがA4のメモ用紙を手に持って収録したことです。普通はプロンプターを使って、見た目の印象をスマートにしようとするんですが、あっ、手に持つんだと。でも、まだ小田さんとの距離もあって、怖くて誰もそれを言えず、これで行きましょうと。普通、ストーリーテラーは、紙を手に持ちませんから。
──これはすごく面白い番組になると実感したのは、どこの時点ですか? 収録前、収録中、収録後のどこですか?
服部:
(収録が)終わってからですね。収録中はもう張りつめるような空気で、この番組が視聴者に受けるかどうかもわからなくて、こんな息がつまるような収録、すごいなと思いながら現場にいました。そして最後に、ご自身の曲をやったんです。その時まで、拍手や笑顔はありましたが、小田さんもお客さんも、唾も飲み込めないくらい、会場全体がものすごい緊張感で、それが最後、小田さんの曲になった瞬間、わーっと、その時のNKホールの解放感というか、小田さんご自身も含めて、一気に解放されて、本当に明るくて前向きな空気になりました。理解したつもりでしたが、他の人の曲をずっと真剣に繋いでいくことの重圧とか、小田さんが僕等の知らない部分も全部背負ってやっていたんだと、本当の意味で気づけた気がしました。しかしそれでもなお、この番組が成功するかどうかは、わかっていなかった。成功したと思ったのは、放送が始まってからです。放送中、ものすごい数のメールが来て、知り合いから、一緒に仕事している人や、諸先輩からも。何かを成し遂げたのかもしれないなと、すごく感じました。
──放映中に、リアルタイムでご友人などからメールが入ったんですか?
服部:
そうです。小田さんの番組を準備していたことを知っていた人たちから、これを準備していたんだねと、素晴らしいねと。そういうメールをたくさん頂きました。それまで番組をやってきて、そんなことはなかったですから、不思議な気持ちになりました。そして翌朝、視聴率が出ましたが、深夜帯とは思えない視聴率で、数字という立派な証拠が出ると、よくやった!!と、もう手の平をひっくり返したような。もちろん放送で評価してくれた人も大勢いましたが、視聴率が出てからは、「事件」になりました。
──具体的に何%だったんですか?
服部:
深夜帯は1%とか2%が通常ですが、8%弱でした。それはもう衝撃の数字で、大事件が起きたぞとなり、その年はラジオでの放送もありましたね。そして、小田さんのところに、櫻井和寿さんから手紙がきて。普段の放送では体験できないことがたくさんありました。そうだ、打ち上げをやったんです。その時、僕等から「小田さん、クリスマスの約束は三部作なんです!」と。小田さんは苦笑いしていました(笑)。2回目のあとだったかもしれませんが、「三部作」ですと(笑)。
──私は新聞のテレビ欄も見ていなかったし、全く番組について知らなくて、深夜、家に帰って、たまたまテレビをつけたら、ちょうど始まったところでした。全くの偶然で、なんでこんな深夜にと思い、見始めたら面白くて最後まで見ました。ある意味、私にとって、小田和正さんとの出会いは、まさにこのクリ約の1回目でした。
服部:
それは素晴らしい。
──なんて面白い人なんだと、志も高く、その3年半後に「アエラ」で取材させて頂き、いまに至ります。「クリ約」との偶然の出会いがなければ、今日ここにいないように思います(笑)。あれは色々な意味で衝撃でしたね。
服部:
僕も衝撃でした、本当に。「クリスマスの約束」との出会いがなかったら、制作に残っていたかどうか。その意味で、自分の人生を劇的に変えてくれたと思っていますね。元々は、テレビも音楽を大事にしていた。70年代くらいまでは音楽そのものを演出する番組も残っていたんですが、80年代になってから、テレビ演出の中で、徐々に音楽が地位を下げていく。テレビが強すぎたんですね。
──小田さんはずっと音楽仲間に、あなたの歌はいいねと言い合える場が欲しかったし、日本版グラミー賞の創設にも奔走した。でもごく少数の音楽仲間以外に、そういう場がなかった。
服部:
1970年代には、大部屋に皆さん一緒にいるから、おつきあいのある人たちもいたでしょうね。僕がすごく楽しみだったのは、会議の合間に、番組以外の話をする時間でした。小田さんがオフコースでデビューしてからの話を、70年代日本音楽史みたいな、それを聞くのがすごく楽しみでした。
──あっ、そういう話をたくさんなさったんですか?
服部:
ええ、たくさん聞かせてもらいました。小田さんの話を聞いて、本来、ロック、ポップって、そういう世界だよなと。僕、洋楽が好きで、イギリスやアメリカの曲もたくさん聴くし、記事も読むと、セッション文化なんですね。アビーロードスタジオにいたから、ちょっとセッションしてきたみたいな。きっといまだにそれをやっている。基本、ミュージシャン、アーティスト同士が、ジャンルや年齢に関係なく、常に交流している。ポール・マッカートニーだって、最近も、地味なコラボをやっています、孫みたいな人と。本来、ポピュラーミュージックって、そういうもので、小田さんの口から当時のアーティスト同士の交流の話を聞いて、日本もある時期まではそうだったのだろうかと。小田さんの話から音楽業界がどう変わってきたのか、思いを馳せることがありました。本当に歴史の先生みたいでしたね。そしてテレビの人たちが、70年代の小田さんたちをどれだけ傷つけてきたか、PRやタイアップ以外で、メディアは音楽文化にどんな貢献をしてきたのだろうか?という気持ちにもなりました。いまはそういうことはほとんどないですが、すごく威張り散らしていた感じは、僕が入社した1990年代中頃でも感じましたよね。何を威張っているのかと。ですから僕のなかでは、「クリスマスの約束」の制作過程は、番組をつくる時間ではあるけれど、親子ほど離れている小田さんに、色々なことを教えて頂いた時間でもありました。それが24年間も続いたのは、本当に貴重でした。
──「クリスマスの約束」は、ものすごく長く打ち合わせをしますものね。
服部:
こんなに長く演者さんご本人と話し合う番組はほとんどありません。ドラマは監督と役者さんがすごく話しますが、普通の音楽番組は曲は決まっていますから、サイズを決めて、カラオケもらって、セットと照明を決めて、お迎えして、リハ1、2回して本番撮って、お疲れ様でした。会話することもほとんどないです。それと比べると、「クリスマスの約束」は話しあいに膨大な時間をかけています。2回目以降は、4月頃から始めて12月までですからね。
──小田さんは、2年目以降も、やる気はすごくおありだったんですか?
服部:
「やるよ」とは言わないです。いい内容を思いつくかどうか、出てきたらやろうよと。一回ずつリセットです。三部作なんてないです(笑)。
──2回目はゲストなしですが、いま振り返ると、小田さんがいろいろな方の歌を歌って、あんなに人の歌を歌うことはないですから、ものすごく貴重ですし、お宝映像ですよね。ところで、第3回目に、初めてゲストが登場しました。
服部:
まず2002年、第2回は、最初から誰にも声を掛けなかったんです。声を掛けない、一人でやるということに、僕等は興味をもちました。そして来年はもう一回、声をかけましょうと。で、2003年。最初の年に声をかけた櫻井和寿さん。ゆず。財津和夫さんは盟友、根本要さんは常々、小田さんは「スターダスト・レビューは日本の音楽シーンの中で、もっと評価されるべき」とおっしゃっていた。
──初めてゲストを迎えたこの第3回、やはり感慨深いし、見応えがありました。そしてなんといっても、飛びますが、2009年の「22分50秒」。一緒にやられるアーティストの方々の戸惑いもとてもあったと記憶していますが、服部さんはどんなでしたか?
服部:
大メドレーは、僕が脳内で記憶を改ざんしていないのであれば、2001年に、既にその話は出ていたんですよ。
──そうなんですか?!
服部:
アーティストの声というのは特殊で、強い個性をもっているから、その強い個性が重なり合うことで大きな力になる、それをそれぞれの楽曲を繋げてやる。その話は2001年の会議でおっしゃっていた。小田さんも会議に同席した誰も記憶にないんですが(笑)。でも、そのはずです。そしてその話はその後も時折、出ていた。で、2009年の打ち合わせで、これもお前がそんなこと言った?と言われるんですが、僕が「小田さんが以前からおっしゃっていますが、どうですか?」と提案したと思っていますが、誰も認めていないので(笑)、夢なのか、改ざんしたのか…。
──いえ、これも、きっと、服部さんの大手柄ですよ。小田さんは、ずっと以前の普賢岳のチャリティーの時の、泉谷さんや拓郎さんたちと一緒に歌った「あの素晴らしい愛をもう一度」が、アーティストの声による大合唱だからこそ素晴らしかったと、その記憶がずっと心に留まっていた。ですから、2001年の会議から、そのお話をされていた可能性は十分ありますよね。
服部:
ええ。2001年以降、何度かその話は出ては消えていたんです。そして2009年、一回話を聞いてみようと、(根本)要さんやスキマスイッチや水野(良樹)さんに声をかけましたが、当初、反対され……。
──あの年の収録は幕張イベントホールでしたよね。私は中身をまるで知らずに観客席にいて、あれが始まり、もう本当に驚きました。会場の空気がどんどん変わって、ものすごい拍手が長く続き、小田さん、もう一回、やろうって、やったんですよね。
服部:
もう一回やりました。
──でも、そこまでの過程をたどると、若いアーティストの方々はその意味が全くわからず、反対されていますし、試行錯誤の連続。でも、前提として、みなさんと人間関係ができていたことが大きかったように思います。
服部:
ええ。番組もある程度、有名になっていたし、若いアーティストとの人間関係も構築され始めていた。だからよくわからないけど、ついていこうと。
──でも、その過程は大変だった。
服部:
まず小田さんが仮の音源を作りましたが、良し悪しが少しわからなかった。でも、デモはあくまでもデモなので。で、実際、リハーサルが始まり、練習に来た人たちの声をトラックに入れて、本番と同じものができていく。でもまだ、これだ!という感覚にはなれていなかったですね、僕はというか、もしかしたら誰も。
──そうなんですか?
服部:
本番前日のゲネプロで、同じ舞台で全員揃ってやりましたが、実は、その時も、まだ…。
──えっ、ゲネプロでも?!
服部:ええ。前代未聞のこの長さ、それ自体すごいけど、明日、お客さんが入って、どうなるんだろうかと。正直、不安はありました。もしかしたら、小田さんも思っていたんじゃないかなぁ、いけるかなぁ、どうかなぁと。いえ、小田さんだけは見えていたのかも知れません。
──そうなんですね?!
服部:
でもここまで来たら、全員、引き返せない。そして本番の「TRUELOVE」、佐橋さんがイントロをツゥルルンとやった時、お客さんがウォーっとなった。その瞬間、あっ、こうなるんだと。
──「TRUE LOVE」は、最初の藤井フミヤさんですね。
服部:
そうです。あの瞬間、お客さんの凄まじい歓声が上がって、あとはお客さんがどんどん盛り上がっていった。多分、フミヤさんも百戦錬磨ですから、自分が前に出て、客席から巨大な反応が沸き起こった時、あっこれは勝ち戦だと。それを見て、全員が、これ、勝てると。それまでは、全員、疑念があったと思います(笑)。
──たしかに、まず全員で「この日のこと」を歌ったあと、藤井フミヤさんが、すーっと前に出てきて、何事が起きるのかなと思った瞬間、イントロが始まり、えっという空気になりました。
服部:
しかも、歌い出しはフミヤさん一人だけですから、どういうコーラスワークになるのか、まだわからない。つまり始まっていないのに、不思議ですよね。イントロでお客さんの空気が一変した。その瞬間、「22分50秒」のメドレーは完成したと思うんです。お客さんの力を、あんなに明確に感じたのは、初めてでしたね。もっと早く気づけば良かった。お客さんのあの歓声や表情や拍手があって、初めて、あのメドレーは完成するんだなと。そこは確信させてもらいました。というわけで、信じていましたが、僕は自信がなかった。どうなるかわからなかった。
──「22分50秒」は、小田さんの核を象徴していると思います。あれだけの天上の声をお持ちですが、自分が無になっても、いいハーモニーをつくりたいとの思いが強いと感じます。
服部:
コーラスワークは、1960年代1970年代のポップミュージックのある種、核なんですね。ビートルズもコーラスワークが印象的です。しかし90年代頃からかな、コーラスが減っていく。ボーカルの人が自分の声でハモったりする。違う成分を持つ声がハモるから良いのにと、僕はイライラします。小田さんの世代はコーラスワークが強力な音楽だとよくわかっている世代で、いまの若い人はコーラスの力をそこまで重視していないのでは?と僕は感じます。だから22分50秒とは、小田さんの世代のある種、象徴的な武器を使って、押し切った作品なんだと思いますね。
──なるほど。だから若いミュージシャンたちは、小田さんに提案されても、よくわからなかった。確かに70年代の洋楽ロックも、ものすごくコーラスが綺麗で、魅力的でした。
服部:
基本、ドラム、ギター、ベースと鍵盤、フォー・リズムでやる。そのミニマルな編成のなかで、変化を出すには人間の声でアンサンブルを足していく手法を編み出していった。小田さんはその時代をリアルタイムで生きていますから、すごいですよね。以前、ある音楽家に「人の声が一番説得力のある楽器なんだよ」と言われたことがあって、つまりミニマルで、一番説得力のある楽器は人の声で、しかも20人いたら20種類の楽器がリズムセクションに乗る、強力ですよね。
──22分50秒は21組33人の声でした。でも打ち合わせの中で、若いアーティストたちは皆、色々な声が合わさると、アーティストの個性がなくなってしまうと反対しました。
服部:
大反対でしたよ(笑)。未知のことに反対する。保守的な考えの方ばかりでした(笑)。しかし保守的な考えだけでは新しいものはつくれないんだと教わりました。面白いと思うから、ただやるということも大事だと。企画会議の時、小田さんにこの記事面白いから読んでみろと言われたのが「はやぶさ」のプロジェクトリーダーの記事でした。あれも、何のためにやるの?と、経産省も文科省も反対で、結果を示してくれないと予算はつきませんと。つまり出口戦略だけでやっていたら、宇宙開発なんてできない。結果を保証するものなんて、何もない。でも結果はわからないけど、もしかしたらとてつもない成果が得られるかも、という非常に勇気づけられる記事でした。
──すごくいいお話ですね。
服部:
2009年のクリスマスの約束には、新しいものを生み出す時って、こういうことなんだというものがありました。いまだから言えることかも知れませんが、負けてもいいんですよ。あの時の小田さんの勇気って、すごいです。キャスティングしてから本番の「TRUE LOVE」まで、一体、何日あったのか、よく心が持ったなと思います。逃げちゃいたいと思うじゃないですか。
──そうですね。「クリスマスの約束」には、さまざまな困難がありました。いま、どう感じられていますか?
服部:
育ててもらいましたね。逃げずに諦めずに最後まで向き合う。迷った時は、いつもこの番組を思い出します。自分の軸にさせてもらっています。
──服部さんにとっての「クリ約ベスト3」はどうですか?難しいですか?
服部:
ベストは難しいですね。うっかり泣いちゃった回にしましょう。
──はい、ではそれで。
服部:
ひとつは、2003年、小田さんと櫻井和寿さんが、二人で「HERO」を歌ったときですね。初回に、小田さんが「Tomorrow never knows」を一人で歌い、とうとう3回目に櫻井さんが出演されたときです。2年前に一人で歌っていた小田さんの姿がふっとよぎって、ついに結実したと思ったら、まだ若かったので涙を止めるスキルもなく、ポロポロ泣き出して、暗がりに隠れたものです。2009年も泣いてもおかしくないですが、あまりにスタッフが泣きすぎて、涙がひっこみました。
──スタッフの方たちは、そんなに泣かれたんですか。
服部:
みんな、ボロボロ泣きだして、「小田さんが泣いているから(カメラ)寄って!」と言ったら、中継車のディレクターも「僕も泣いてます。」照明の松本さんからも「松本も泣いてます」って。いい加減にしなさい(笑)、みたいな。それで僕は涙が引っ込みました。でも嬉しかったですけどね。あとは、一昨日、最終回ですね。要所要所で泣きそうになりましたけど、なんとか。
──とうとう最終回ですね。
服部:
これから編集なので、まだ終わった気は全くしてないですが、ただ一つ言えるのは、「クリスマスの約束」を思い出すのはいつだろうなと。この20回の景色を、感動と修羅場がない混ぜになった景色を、冷静にあるいは懐かしく思い出すのはいつなのかなと。そして2001年から2024年までの断片的な景色を思い出した時、どういう気持ちになるのかなと、いまは思いますね。
追記 「クリスマスの約束2024」の放送を終えて
インタビュー収録時は、放送前でありましたので、放送を終えた今の気持ちを、少しだけ記させていただきます。放送後、多くの方から、これまでの労いや終わってしまうことを残念がる言葉をいただきました。そうした声に感謝の気持を抱きながらも、個人的には「終わった」実感がわかない日々を過ごしています。それは、放送以外で、より多くの方々にこの番組をご覧頂く機会を作るための作業に取り組み始めているからかもしれません。放送を出したらそれで終わり、という時代ではなくなっていますから、いつか僕等がTBSを卒業した後も、次の世代にしっかりと届き続けるような仕組みを作っていくことが、本当の仕上げになるのだと思っています。TBSのライブラリーには、収録済み未放送楽曲の映像と録音ファイルが、素材として残されています。放送された完パケだけでなく、それらも含めた形で世の中に遺すことも「クリスマスの約束」というプロジェクトにとって、必要なことであると信じています。いつとは申せませんが、その日が来るまで、今しばらくお待ち下さい。最後になりますが、この場を借りて、御覧頂いた視聴者の皆様方、ご出演くださった多くのアーティスト、共に戦ってくれたスタッフのみんなに、心から感謝を申し述べさせていただきます。そして、私個人としては、2001年から2024年までの放送および音楽文化に、ほんの僅かかも知れませんが、貢献出来たのならば幸いです。
Kazumasa Oda Tour 2024 「みんなで自己ベスト!」